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04月25日
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MIT(Made In Taiwan)の教師をタイ国ヘ

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【タイ・チェンマイ慈済学校】
授業を終えると皆そろって自転車を引っぱり出して、少し離れたスーパーに買い物に出かけた。一週間分の、夕食だけの食料品を買うのがいつの間にか習慣になっていた。彼らの会話はよどみのない中国語であった。一言一言を正確に発音して話す言葉は、中国大陸のどの地方とも違った台湾ならではのアクセントがあった。

海、山を越えて幾千里、家を離れてはるばるタイ国に渡ってきた李宛真。滞在中、長期の休暇にタイの同僚が計画する国内旅行にも参加せず、家族に会いたい気持ちいっぱいで、帰国を急ぐ李宛真。こんな自分が何でこんな遠い所に来てしまったのかと、一日の大半を皆と過ごす教室で、声を落として笑うのだった。

李宛真には「正しい中国語を子供達に教えたい」との強い願いがあった。人生経験が豊かな教師でありたいと願う李宛真にはどんな矛盾があっても逃したくないチャンスであったのだ。それに「矛盾があって初めて衝突があり、衝突してこそ波が岩に砕けるような花が咲く。もちろん岩に打ちつけた波が、皆花のように砕けるとは限らないが、やってみなければ誰にもわからない」と希望と抱負を語る李宛真。彼女ら自称MIT(Made in Taiwan)の教師たちは希望にあふれていた。台湾で学んだものをタイで花咲かせたいと、胸を大きく膨らませるのだった。

学校を巣立った第一歩
師範大学国文科を卒業後、李宛真は教育実習のために地方に派遣された。教学の対象は中学生だった。生徒たちを前にして初めて教壇に立った李宛真が感じたことは、大きな挫折感だった。年頃にふさわしく、活発で物事への好奇心が旺盛な生徒たち。しかし、教科書に書いてあることを教える以外にその生徒たちを満足させるものが自分にないことに気がついた。

人生の価値を認識し始める時期を迎えた生徒達を教えるには、自分にはまだ足りないものがあると知ったのだ。ならば積極的に自分を満たさなければならないと李宛真が考えたのが、今度のタイ国行きだった。しかしそれにしても、郷愁の強い彼女にしては大きすぎたチャレンジであった。

李宛真が最初に直面した問題は言葉の違いだった。タイ国に渡る前に、基礎的なタイ語の訓練を受けていたが、タイ人生徒との意志の疎通には困難を感じた。例えば「礼儀を守りましよう」と中国語で言えば彼らは理解できるが、そのもっと深い意味を説明し始めると学生たちは戸惑ったような顔をする。コミュニケーションがスムースでないことは教学を難しくした。その状態が改善されないままに長い時間が過ぎ、李宛真を悩ませた。が、最後に解決したのは李宛真自身だった。毎朝教室に入ってきた生徒たちに、授業前の挨拶をさせるのに彼女がまず「制服」と言う。生徒たちがそれを受けて「きちんとしましょう」と言いながら、襟を正して先生に頭を下げて挨拶する。言語に伴った動作、動作に含まれた感情との演出は、生徒たちを納得させるのに非常に役立つことを李宛真は発見したのだ。

しかし、彼女にはもっと根本的な問題があった。目的を持って外国語を習う大人たちと違って、生徒たちの中国語は教科書を読むためだけに必要なので、彼らの学習態度はあまり熱心でなかった。それに気づいた李宛真は、生徒の中国語への興味を引くために、いろいろなクイズ形式の問題を作ったり、チームに分かれて競争を授業に取り入れて生徒たちの好奇心をそそり、遊びながら学ぶ楽しみを教えるのだった。

「私にとって難しいのは教えることではなくて、どうやって教えるのかを最も考えなければならない」。教学の設計図を頭の中で描き、生徒達が興味を持つような教材を作り、それを十分生かして授業する。そうすると喜怒哀楽を素直に表すこれらの豆菩薩たちの笑顔を引き出せる。こうして彼らが自分から努力することを期待している。

「本当に毎日がこの連続で疲れます。でも、それによって身をもって学んだことも多いのです。今では自分の教学に対する自信も増し、手探りで歩いてきたような挫折感もなくなりました。生徒たちが私に何の後悔もなくここに留まることを決心させたのです」。大きく見開かれた目に意志の強さを語る輝きを見せて、彼女は私たちに語るのだった。

教師たちの目に映るゴール
馮令愛は中国語教学の経験が豊富な教師として広く知られていた。台湾では外国籍の配偶者などを対象に授業をしていた。インド洋大津波の後、小学校の支援教師としてインドネシアの片田舎に渡った。教学期間六カ月に亙るインドネシアへの旅は、彼女をびっくりさせることばかりだった。この国の文化に触れ、さまざまなことを見聞し、視野が広くなったのだ。

一年前にその馮令愛がチェンマイ慈済学校に赴任してきた。インドネシアと同じく、タイ国も気候は暑く資源は乏しい。生徒もいろいろな民族の集まりで、学校への交通も不便だった。唯一つ、両国の違いは、慈済学校が学業の成績よりも品行を重視することである。インドネシアに来てからの馮令愛は、その点で慈済に大変共鳴したという。学問、知識への道は無限であるのと同じように、人として学ぶべきことも終わりがないのだ。 

「教え子の中に、成績の非常に優秀な子がいました。が、独りよがりで、人の気持ちに無頓着。親切にされても当然のように受け取り、まして人に尽くそうなどとは夢にも思わないような子でした。私はその子の将来を想像すると、何を次の世代に第一に教えるべきかが分かるような気がするのです」と馮令愛は自分の体験談を例にして自分の信念を強調するのだった。

事実タイ国は、歴史が長く礼儀を守ってきた国だった。古い伝統的な礼儀は美しいものとして残されているので、慈済学校ではそれを深く掘り下げて子供たちに教えていた。ことに教師への尊敬は最も大切で、形だけではなく、心からのものでなければならないと言って聞かせるのだった。その教えを守ったのか、新年や祭日にはお祝いカードが先生方に送られ、誕生日には生徒達がバースデーケーキと共にお手製の招待状を携えて先生と一緒に祝うようになった。

「子供から思春期に入った生徒たちに私が願うことは成績の良し悪しではなく、人間として立派に育ってほしいということだけです。学業も大切ですが、それ以上に内も外も人として呼ばれるに恥ずかしくないような人になってほしい。それが慈済学校が目指すゴールではないでしょうか」と馮令愛が語った。





チェンマイ慈済小学校卒業式の前夜、子供たちをびっくりさせるお友達が来た。

五カ月前、この小学校の教師をやめて台湾に戻った詹怡苓はさらに深い造詣を求めて華文教学研究所に入った。そして最近、慈済小学校卒業式参加の招待状を、チェンマイの教え子からインターネットを通して受け取った。はっきりした返事を出さないまま、詹怡苓は休暇をとって、時間どおりに学校に現れた。子供たちはびっくりして喜んだ。

「私はこの子供たちの最初の中国語教師であり、子供たちも私の最初の生徒でした。そのためにお互いひかれるものがあったのでしょう。学校を離れる最後の授業のことを私はよく覚えています」と語る詹怡苓の声はかすかに震えていた。授業の終わる十分前、詹怡苓の教えた「ありがとう」という歌を子供たちが手話を交えて歌ったというのだ。自分の教えた歌で幼い教え子に見送られたその時の気持ち、思い出す度に心の震えを抑えることはできなかった。 

「この子たちはもう立派に一人立ちできます。三年前にはまだあどけなかった子供たちが、こんなに人の気持ちの分かる良い子に成長したのを見る喜びは、例えようもありません」と詹怡苓は言葉をつまらせた。


慈済月刊五〇二期より
文・凃心怡/訳・如薇/撮影・林炎煌
 

" 福徳を大事にする人は、善を行うことができる人であり、善を行うことができる人はいつも楽しく過ごすことができる。幸せな人生とはこのことである。 "
静思語