【證厳上人のお諭し】
どの命にも
豊かな善意が秘められている
この世のどんな事柄にも
無量の法門が秘められている
どの法にも
無量の奇蹟が秘められている
命そのものが大蔵経
抜苦与楽(ばっくよらく)の人生を送ろう
智慧を働かせ
無量の力を以て奇蹟を創造しよう
二千年前、釈迦は「一大事因縁(いちだいじいんねん)」のためにこの世においでになりました。この一大事因縁とは「開、示、悟、入」のことで、すなわち人々に開示して、覚悟を促し真理を説くことです。
今の世の「一大事」とは環境保全のことです。世界各地で強風や大雨、地震が頻繁に発生しています。大地が傷つき、人々が苦難の淵に立たされることは、見るに忍びません。この時こそ人々は力を発揮して人を愛し、大地を愛し、この世の万物を心から愛して資源の回収に努めなければなりません。環境を保全することができれば気候は調和し、ひいては世のためになります。
二十年来、小さな島国の台湾では、日々六万七千人の慈済環境保全ボランティアが、早朝から夜遅くまで地球の愛護に尽くしているのは、台湾の奇蹟のみならず世界の奇蹟です。
環境保全はこの世にとって重要なことで、世界全体で取り組まねばなりません。慈済がさらに努力して模範となり、各地の人が習いにきて共に環境保全に投入することを期待しています。世界中が環境保全に努めれば地球を救うことができるのです。
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今年の八月、チリで落盤事故が発生して、三十三人が六百メートル以上の地下に閉じ込められ、一本の管から食べ物や必要品を送って命をつないでいました。政府と民間人は協力して智慧をしぼり物力を投じて、六十九日後、ついに全員を救出しました。
この工員たちはなぜ生命の危険を冒してまで、深い地底に入ったのでしょうか。人類の需要を満足させるためではありませんか。人類が鉱物を取るため山を掘り、地に穴をあけて石油を抽出しているのは、大地にとって償いようのない破壊と汚染をもたらすもとです。大地を浄化するには、人心の浄化から始めねばなりません。人心の調和には、倹約をして物資を浪費せず、資源を消耗しないことで、人々が欲望を抑えることを期待しています。資源を回収して再利用すれば新たに多くの資源を掘ることもなく汚染にもならず、風雨は順調となり、国家は泰平となり、人民は平安を得られます。
環境保全のため
「節流開源」を心がけよう
節流とは絶えず開発しないこと
開源とは回収して
再生すること
環境保全の要である「節流開源」の「節流」とは絶えず開発をしないこと、「開源」とは回収して再生することです。
リサイクルセンターでは様々な回収物を見ることができます。かつては大事に使われた物が「流行遅れになった」との理由で、不要になって送られてきました。回収せずすべてをゴミとして捨てたら、小さな台湾はゴミで溢れてしまうでしょう。
他人にとって無用になった物もボランティアの手に渡れば宝に変わります。材質の違う物は、どんなに小さくても分解して集めます。例えばペットボトルは蓋を取り、ボトルの口に残った輪までもはずします。こうして細かく分類すれば業者は高値で引き取り、品質のよい再生品に生まれ変わります。
ボランティアは一滴の水も大河になる例えを実行しています。大海のもとは一滴の水からです。一滴の水と軽く見てはいけません。一滴の水が大海に入ることによって涸れることがないのです。環境保全は一人の力だけで成せるものではありません。多くの人の愛と力の一滴一滴が功徳の海を作りあげているのです。
命には功能があり
良能がある
人に奉仕できることは
智慧であり
命の良能を
発揮できることである
こんな話を聞いたことがあります。ある婦人が一本の傘を買いました。とても気に入って使うのがもったいないので、箱にしまっておきました。十年が経ち突然思い出して取り出したところ、傘の骨と布がばらばらになっていたといいます。
物とは細心に使ってこそ、その功能を発揮することができるのです。かりにもったいないと思い、しまって使わなければ時が経ち、壊れて無用の物になります。人も同様で、自分を労わるあまり手足を動かさなければ、時が経つと手足はその功能を失うことになるかもしれません。
人の生命は功能があるだけでなく、良能があります。人に奉仕できることが智慧であり、また生命の良能を発揮しているのです。慈済のリサイクルセンターでは皆が朝早くから夜遅くまで、十分に時間を利用して、喜びと清らかな心で身体の功能を発揮しながら、福と慧の修行をしています。
ある人が、慈済のリサイクルセンターで仕事をするのはよいことだと聞いてやって来ました。しかし実際やってみると、手は汚れるし、回収物もゴミのようにしか見えません。それですっかり幻滅してしまって翌日から来なくなりました。
これが、発心はたやすいが不変の心を持ち続けるのは難しいということです。しかし、高雄のリサイクルセンターで多くのお年寄りのボランティアが仕事をしているのを見て、ここへ来てから何年になりますかと聞くと、大部分の人は「センターが始まって以来です」と答えました。万難を排して初心を忘れず二十年も黙々と奉仕してきた人たち、正に真の菩薩です。
ボランティアの中では資源回収を行うだけでなく、悪い習慣を改めている人たちもいます。タバコ、酒、ビンロウの三悪習から抜け出し、良い言葉を話し、良い行いをし、心は常に良いことを思う、三つの良い習慣を身につけようとしています。
多くの人が間違った過去の人生から正しい方向に向きを変えて、家庭に平穏をもたらしています。福のある家庭が多ければ地域の福になり、地域の住民が環境保全に携われば社会の福になります。
よい因縁を大切にし
さらに
よい縁を結ぶ福の因を造る
善縁が寄り集まれば
喜びと安らぎがある
あるボランティアがリサイクルセンターへ来ると心から楽しくなるけれど、家へ帰るとどう過ごしていいのやら、と言いました。
娑婆(しゃば)世界は「堪忍(かんにん)」の世界で、種々の苦しみを受けねばなりません。貧困や苦難、そして心に起こるさまざまな煩悩にも苦しまされます。
夫婦や親子になるのは、過去世(かこぜ)に結ばれた縁が因となっているからです。因がなければ縁はなく、夫婦になることはなく、因も縁もなければ同じ家庭に生まれることはありません。因があって縁があるから「家庭」という果が生じるのです。
縁には業縁、悪縁、そして善縁があります。もしも、家族の人々が前世で善縁を結んでいたら、この世でお互いが恩に報いるために生まれ来て、楽しく幸福な家庭を作ります。業縁、悪縁なら生涯にわたってお互いがいがみ合い、苦しみにつきまとわれます。
心霊の煩悩をなくすには、神様の庇護や仏の加持を求めるのではなく、自身の心の変化を図ることです。心から敬虔な信心を持ち、教えに従うことで「内感外応(心の内に感じ、自分をとりまく事柄に応じる)」できます。
悪因悪縁という怨みを解いて、もろもろの借りを返させようと求めず、自分が借りたと思うものは速やかに返せば、苦しみはなくなります。そして現在のよい因縁を大事にし、さらによい縁を結び、福因を造って来世また次の来世で良縁、善縁で睦まじく結ばれましょう。
仏法でいう「因縁果報」とは、過去世ですでに今生のシナリオが書き上げられており、現在の行動は来世のシナリオを書いているということです。今生で見返りを求めずに奉仕に励み、正しいことはやればいいと努力して善の役を演じなければなりません。
「福は奉仕するうちに喜んで得られる」というように、喜んでするということが福です。する中で心が安らぐことが智慧であり、心に安らぎと喜びを覚えることが功徳です。
人はいつか老い、衰える
仏教のため、衆生のためと
この一刻を実行に移すことが
活きた功徳となる
四十余年前に私が普明寺の裏の小屋で修行を始めていた時、平慧永おばあさんが私を可愛がって世話をしてくれた上に、お寺へ引っ越して住まわしてくれました。
おばあさんがその時にしてくれた故郷のお話です。おばあさんは中国大陸で生まれました。多くの田畑を持ち、大勢の小作人を抱えた豪族でした。そんな家族の中で、放蕩三昧の生活をしていたおじが亡くなりました。しばらくして付近の農家に子豚がたくさん生まれましたが、その中の一匹の背中に叔父の名前が剃刀で剃ったようにはっきりと浮かび、大変な評判になりました。親族は肩身の狭い思いをして、それ以後因果を信じ仏法に帰依しました。
また、親族に信心深くいつも喜んで布施をしているおばあさんがいたそうです。おばあさんがある時、息子に「私が死んだらどんなお葬式をしてくれるの」と聞きました。息子が「お母さんのおっしゃる通りにします」と答えると、おばあさんは「生きている間に私の活功徳(生きている人の供養)をこの目で見たいのです」と言いました。息子がどんな方法でやればよいかと聞くと、「この辺りには貧乏な人が多いでしょう。冬になると飢えている人たちは温かいお粥が欲しいでしょうから、この方たちに四十九日間お粥と食べ物の施しをなさい。次はお坊さんをお招きしてお経をとなえ、説法をしていただき、子孫全員が拝聴することです」と言いました。
息子はおばあさんの言いつけどおり、法師を招いて四十九日の法会を行いました。その間、おばあさんは正装して説法を聴き、貧しい人が熱いお粥を食べて食べ物を持って帰っていくのを喜んで見ていました。
四十九日が終わっておばあさんは「とても満足です。将来私が死んだら静かにお棺へ入れてくれたらそれでいいのです」と言ったそうです。
慈済を立ち上げてからの私の日々は、時間と空間に取り巻かれ、人々の間を駆け巡って来ましたが、四十八年前に聞いたこのお話は今でも鮮明に心に残っています。
人の体は刻々と新陳代謝し、生命の無常も瞬時の間です。今は健在で最後の一息まで頑張ると発願しても、生命には限りがあるので、私はいつ何時でも「最後の」準備をしています。
未来の慈済がどう伝承されてゆくのか、死んでしまえば私には見ることができません。それで、私の願望は現在の四大志業がどのように法脈(ほうみゃく)を伝え、どう運営するかをこの目で見ることです。
縁のある人たちが慈済に入って、共に修行し、お互いに道心を護持しています。一人ひとりの慈済人が時と因縁を把握して、細心に任務を担い、「師匠、ご心配なく」と言ってくれるその言葉通りになることを切に希望しています。
法脈は精神の所在
法を心にもって
行動を起こしてこそ
慈済志業は永久に続いてゆく
時は飛ぶような速さで、瞬時も留まっていません。世界中の慈済人が一歩一歩着実に足跡を残し、一時も無駄にせず、一心に今日の慈済を作りあげてきたことは感謝に堪えません。
「静思法脈を伝承し、慈済宗門を弘める」との言葉は単なる標語に留まらない意味を持っています。法脈は精神の所在であり、慈済四大志業には精神理念があるからこそ、永久に伝えてゆくことができるのです。法が心に入り慧命が増し、自然に心が広くなります。心を開けば智慧が開き、天下の大事を己の責任とすることができます。
どの人の生命にも豊かな善意が秘められており、この世のことはどれ一つをとっても法門でないものはありません。どの法の中にもまた、限りない奇蹟が秘められており、心に法が入り無量の仏の教えは全て今この前に現われます。
生命の大蔵経に歩み入り、抜苦与楽を人々に施すと、智慧が絶えずに湧き、数えきれない奇蹟が出来上がります。
さらに感謝するのは、慈済人が「仏教のため、衆生のため」の精神を堅持して、どんなに遙遠な地であっても団結し、仏の心を己の心とし、互いに心を通い合わせていることです。長期に亘って協力し合い、この世の苦難の人を守り、一度災難が起こればどこであろうとも駆けつけて奉仕してきました。
仏陀は「心、仏、衆生には違いがない」と言われました。あの人、この人、私とすべての人は仏と同等の大慈、大悲、大喜、大捨を具えているのであり、自分を軽視してはなりません。さらに多くの人間(じんかん)菩薩を招いて、菩薩道を歩んでゆく必要があります。
他人とよい縁を結ばない人が人を済度するのは難しいことです。福も縁も具わった人は誰が見てもほのぼのと温かく、その呼び声に応えることができ、善の種子を無量に生じさせます。
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元来人の本質は清らかなものです。大きな鏡のような智慧を具え、静かな湖水のように周囲の様子を映すことができます。一つの小石が落ちて水面に波紋が起きた時、心中に濁流が起きると道を見通すことができません。
仏法で常に言う「善悪無記」とは、善に出会えば導かれて善へ、悪に出会えば悪に走ることです。凡夫は愛欲の交錯に心を乱し、迷いでどうにもならなくなってしまいます。破鏡を元に戻すのは困難の極みです。
仏陀がこの世においでになったのは、衆生をお救いになるためです。仏の道を学ぶからには「慈悲喜捨」の四無量心で、天下の事に関心を寄せねばなりません。法は慧命を潤し、心霊の糧を満たして邪悪な思いを取り除き、正道へと導きます。
人々が静かな瑠璃のように清い明朗な本性で刹那を把握し、天下の大事を己の責任とすることを期待しています。心の智慧の灯を煌々と灯し、この光で世界を照らして、人々を光明の道へ導くことを切に祈ります。
慈済月刊五二七期より
訳・慈願/絵・高配