南アフリカの貧しいズール族からヨルダン砂漠のベドウィン遊牧民、そして、フィリピンのビニール袋を売って生計を立てている少女に至るまで、年齢、地域、肌の色、宗教の違いを超え、悲しみに暮れる人に希望をもたらそうとしている。
南アフリカ・ズール族の慈済ボランティア、シンシアさんの家は、小さな台所と寝室があるだけだ。屋根には所どころ穴が開いている。そこに彼女は五人の子供と住んでいる。ここはまた、この地区のエイズ患者孤児の世話をする愛の厨房でもあるのだ。
シンシアさんは夫を亡くした後、草とりや資源回収などをして生計を立てていた。また、ゴミ箱から食べ残しを拾って子供たちのお腹を満たしたこともある。ある日、慈済ボランティアがシンシアさんの家を訪れ、間もなくたくさんの日用品と毛布を持ってきてくれた。
彼女は見も知らない人たちが親身になって世話してくれたことに深く感動した。シンシアさん自身も慈済ボランティアの励ましでボランティアの仕事をするようになった。週三日、近所のボランティア六人と共に、エイズ患者の孤児三百五十人に食事を作ったり、十二戸の極貧の家庭を長期的に世話している。
シンシアさんはダーバンのズール族慈済ボランティアの中でも一番貧しいうちに入る。以前は世話を受けていたのに、今は大勢の面倒を見ているので、皆びっくりしている。
その変化は経済的環境が改善されたからではなく、心の問題である。シンシアさんの生活は相変わらず貧しい。週に六十ランド(約七百円)の収入しかないが、人のために尽くすことを誓ってからは、様々な善の縁が伴ってきている。
シンシアさんの家の向かいに平らな土地がある。慈済ボランティアに近所の人と一緒に愛の野菜畑を作ってみてはと勧められ、キャベツやニンジン、サトイモ、玉ねぎなどを植えている。平日、彼女は街に行って店から賞味期限切れの食材をもらい、食事を作るボランティアの仕事をしている。近所の人は皆、彼女が善行をしていることを知っていて、一ランドや五十セント出して支援してくれるので、今でも絶えることなく愛の厨房を維持できているのだ。
その日、厨房ではえんどう豆とキャベツを煮ていた。外の木の下ではボランティアが薪を拾ってきて火を焚き、その上に大きな鍋がかけられ、トウモロコシの粉と水で餅を作っていた。食事前の時間を利用して、ボランティアはステージを設置し、近所の人やエイズ孤児たちと共に、日本で二日前に発生した大地震の被災者のために祈りを捧げた。
「敬虔に願をかけて寄付すれば、その愛の布施で不思議な力は遠いところにいる被災者に届き、再建を助けることができます」。小さな子供たちはこの道理を聞いて、ボランティアが渡した硬貨を握りしめ、敬虔な気持ちで募金箱に入れた。何人かの住民もポケットから硬貨を取り出し、愛の布施をした。
孤児やシンシアさんのような平凡な人が黙々とこの世界を思いやっている。
日本の大地震の後、慈済ボランティアがいる世界中の国で、このような敬虔な祈りの力が次から次へと啓発されて大きな力となっている。肌の色や民族の違いを乗り越えて、遠くで被災した地球村の人々に愛が送られている。皆でこの世が平和で災難がないことを祈っている。
できる範囲で布施
些細な力を集結する
地震発生から八日目、遠く離れたヨルダン・モワッカ地区のベドウィン村落でコーランの斉唱が鳴り響いた。この敬虔なアラーの民たちは、地震と津波の被害に遭った日本の人々のために祈った。
その日は、人々が待ち望んでいた春季の物資配布日であり、二百戸余りの貧民が集まり、慈済から贈られた物資を受け取った。「ジャスミン革命」の影響を受けて、ヨルダンでもデモが発生した。しかし、慈済はいつも通り貧困地区に行って布施をし、人々の善意を啓発し、社会を安定させる力になることを期待した。
ボランティアが愛の募金箱を人々の前に持っていくと、純朴なベドウィン人はポケットを探って硬貨を取り出した。ある男の子が恭しく硬貨を一枚入れ、「これは僕の硬貨」と言い、続けて二枚目を入れ、「これは弟の」と言った。
フィリピン・マニラの町角では、八歳のジューリーちゃんが家の生計を助けるために、毎週末、商店街でビニール袋を売っている。生活は苦しくても、ジューリーちゃんは孝行者で、純粋で善良である。慈済ボランティアが強い日差しの下で日本の被災者のために募金を呼びかけているのを見て、躊躇することなく稼いだばかりの五ペソを募金箱に入れた。
援助される人とする人
愛の循環
「二年前の台風十六号の時、私たちはたくさんの援助を受けました。今度は私たちが日本を援助します。私たちの寄付金は多くはないけれど、それには無限の真心と支持の心がこもっています」。三月十四日、フィリピンのマリキナ市政府が行っている週一回の国旗掲揚式典で、デルデグズマン市長が慈済の募金箱を持って、出席していた七百人余りの市役所のスタッフに愛の布施を訴えた。 人々は慈済ボランティアに従って祈りを捧げ、皆こぞって寄付した。「こんなに多くの人が布施するのは実にすばらしいことです」と市長が言った。カディズ副市長は慈済のおかげでマリキナ市がフィリピンで真っ先に日本を援助する都市になったと感謝した。
台湾では、慈済ボランティアが宜蘭の孝威小学校で全校の教師や生徒と一緒に日本の被災者のために祈りを捧げた。 地震発生当日、台湾で津波警報が発令され、子供たちにとってはいい勉強になった。「私の家は海沿いで、警報を聞いた時、慌てました。幸運にも津波の被害はありませんでした」と五年生の林佳儀ちゃんが言った。彼女は寄せ書きポスターに「負けちゃだめ!」と書き込み、多くの同級生は「頑張れ」「元気でいることを願っています」「早く日本が災難から復興することを願っています」などと真心のこもったメッセージを書いた。
呉枝坤校長は、災害が大きいほど、愛の力も大きくならなければいけない、と生徒を励ました。「同じ地球に住む者として、どこで災害が発生しても私たちと密接な関係があります。全員が心から祈り、全ての被災者が早く苦しみから逃れられるよう祈りましょう」
災害の啓示 人心の浄化を加速すべき
マレーシアのマラッカ静思堂では、慈済青年会の胡家健さんが会場の千七百人の参加者に向かって話した。
「今までは災難は自分とは縁のないことだと思っていました。また、菜食はよいことだと分かっていても、いつも口実を見つけては実行に移せませんでした。機械の補修技師なので、体力が必要、菜食すれば体力がなくなると思っていました。ですから、いつも昼は肉や魚介類を食べ、夜だけは菜食にしていました。しかし、日本で災害が発生してから、僕の慈悲心が揺り動かされ、食に対する欲望を抑え込むことにしました」 三月十六日に行われた日本のための祈祷会では、千五十人が菜食を決意するカードにサインした。それは、菜食をして戒律を守る敬虔な心でこの世を祝福する意思表示である。
街頭募金で愛を募る
一セントでも人助けができる
日本の大地震の後、太平洋津波警報センターは、津波は午前二時過ぎにハワイに到達すると予測した。テレビのニュースでは絶え間なくショッキングな災害の画面を映し出していた。十メートルを超える波が自分たちの家に押し寄せるのでは、と多くのハワイの慈済ボランティアは一睡もしなかった。津波警報が解除されてから、すぐに街頭募金の準備に取りかかった。 米領サモアから来た数人の観光客が慈済のロゴを見て、ボランティアが二年前の洪水の後、援助に来て施療を行ったことを思い出した。そして、ボランティアに近寄って募金箱にお金を入れた。「今度は私たちが日本に元気を与える番だよ」
全米の慈済ボランティアは三月十三日、一斉に街頭募金を始めた。ロングアイランドの最も賑やかな街角で、六歳の蔡苡豐ちゃんが幼いながらはっきりした口調で「One penny counts!」と大きな声で呼びかけ、「愛があれば、一セントでも人助けができる」ことを訴えていた。 ギャンブルの町・ラスベガスのあるスーパーマーケットの前で、両足がなく、車椅子に乗った男性がボランティアに募金の目的を聞き、「今、お金を持っていない」と言った。ボランティアは「かまいません。愛の心があるじゃないですか。日本のために祈ってください」と言った。その男性は深く感動し、「家に二ドルあるから、取りに行ってくるよ」と言った。
ドミニカにはこんな諺がある。「人助けができないほど貧乏な人はいない。そして、何も助けを必要としないお金持ちもいない」
世界で二番目の経済大国だった日本は今回の未曾有の災害で、国内の経済が大きな打撃を受けた。世界銀行は被災地の復興には五年を要すると予測している。地球に住む誰もが遠くに住む家族を思いやり、元気を取り戻せるよう励ます必要がある。 震災後、慈済では「世の中は災害が後を絶たない、菜食して懺悔しよう」という運動を始めた。三月二十三日までに全世界三十六カ国の慈済ボランティアが運動に参加するよう、推し進めている。天災が続く中、大愛を結集して善意の力に変わることに期待し、行動で日本の被災者に最も敬虔な祈りを捧げている。
(慈済月刊五三二期より)
文・袁亞棋、馬廣舜、Erica Vizcarra、羅秀娟、羅秀蓮、廖靜雯、劉星妤、鄭茹菁、陳秋華/訳・済運