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06月21日
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ホーム 證厳上人 證厳上人の説法 慈済創立四十五周年 懺悔の法門を歩んで

慈済創立四十五周年 懺悔の法門を歩んで

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證厳法師のお諭し
四十五年前、慈済は
「人心浄化」のために一歩を踏み出した
その間、多くの人々が
開拓者となることを志し
愛を以て道を切り開いたことに感謝
四十五年後の今日
人々の心に「懺悔道場」が打ち立てられ
清浄無垢の大愛を発揮して
世間の災難を鎮めるよう願う



四月二十六日は慈済創立四十五周年の記念日です。振り返ってみますと、「克難慈済功徳会」が創立したこの日以来、すべて人心の浄化と世間を救うことを目的として、各種の志業が進展してきました。

世を救うにはまず心からといいます。仏法は人心を清め、救世には最良の方法といわれています。私は塵に覆われた人心が仏法に導き入れられることを願っています。人心が浄化されたからには、天下の人々が依存する大地が清浄になります。大地が浄化されればこの世の災難をなくすことができます。

四十五年来、世界にいる慈済人が「仏の心、師の志」を肝に銘じ、慈悲と大愛を以て細心に注意を払って道を敷き、たゆまずに菩薩道を精進してきたことは感謝に堪えません。ただ「法を心に」の一心で人々を導き、法水で無明(むみょう)を洗い、慧命を成長させています。



一九六六年に慈済が設立した年、台湾の人口は八百五十万人でした。四十五年後の今日、人口は二千三百万人に増加し、世界の人口は七十億を突破しています。人口が多ければ多いほど欲の心は大きくなり、需要が増えるにつれ要求はふくらみ、心や世界を救う目標を達成することはますます困難になっています。

人々の心には清流が流れています。しかし少数の人で掘る心霊の湧水は、増え続ける人口と欲念には追いつきません。もっと多くの人が発心立願して「井戸を掘る人」になり、この世に一つまた一つと心霊の泉を掘り、清流を湧き出させれば、人心浄化の目標を達成することができます。

四十五年前、慈済は「人心浄化」のために出発しました。口先ばかりでなく、身を以て努めてきました。私は「経者道也、道者路也」の志で、清浄無垢の大愛を以って菩薩道に精進することに努め、人々の心を啓発したいと願って、四大志業(慈済が推進する事業。慈善、医療、教育、人文の四分野に分かれる)、八大法印(慈善、医療、教育、人文のうえに国際援助、骨髄寄贈、環境保全、地域ボランティアを加えた慈済の奉仕項目)を開拓してきました。

慈済の人々が開拓者となって、愛で道を敷き詰めながら歩んできたことは感謝に堪えません。インターロッキングブロックのように一つまた一つと繋ぎ、険しい道を人々が歩きやすいように平坦に敷き詰め、しかも大地が息をつけるように余裕を開けています。

四十五年後のこの時期、地球の温暖化により、世界では災難が頻発しています。私はさらに人々が心に「懺悔道場」を建立して懺悔、斎戒(肉食を断ち身を清めること)に励み、清らかな心で人を済度し、この世に災難がなくなることを期待しています。


心に塵埃をためず
無常を体得
心を細やかにし
悪因をつくらない

凡夫は「一念無明生三細(さんさい 無明業相・能見相・境界相)」といわれます。どんなに細かな塵や埃も絶えず積もればしまいには砂漠になるという意味です。幾重にも積もった煩悩は、本来は鏡のように清らかな本性を覆い、人生の道を照らし出すことができません。

水に譬えられた法は衆生を潤します。「悪因、悪報、悪縁には、必ず心細やかに注意しなければなりません。人々は日常、因果応報を目の当たりにしているのに、どうして悔い改めることをせず、また悪業を作るのでしょうか」と言って、皆に日々の暮らしの中で、常に注意深く反省し、懺悔するよう促しています。

法水は心の塵を洗い落とします。さらに懺悔と反省を経た後に、法が心に入ることができます。心の鏡を覆った塵を清め、麗しい本性に帰ったとき、「縁起縁滅」という無常の意味が明らかに見えてきます。

人々は皆仏と同等の清浄な本性を持っています。仏弟子は「心の中に仏、行動の中に法」を持つべきです。しかしその仏は私たちの心にどれだけ長く留まっているでしょうか。法は私たちの行動の中でどれだけ長く留まっているでしょうか。

一念を守らずに、振り返った途端、人とぶつかってもすみませんと言わないばかりか、どうしてそんな所に立っていると責めるのは、身を巡らした刹那の間に悪縁を造ったことになります。

多くの人は「無常」とは何かを知っていて、またそれを口にします。ですが本当に悟っているでしょうか。無常とは「縁起縁滅」のことで、縁があれば一緒になり、縁が切れると別れることです。無常を知る者はよい因縁を把握し、人とよい縁を結びます。わずかな動きの中でも、心を守り、一念の間も疎かにしてはなりません。

凡夫にとって、発心するのは簡単ですが、不変の心を守るのは困難なことです。本性を啓発するのは困難ではありませんが、常に清浄な本性を心に留め、法を行いの中で維持させるのは容易ではありません。清浄の本性は習癖に取って代わり、苦海が常に現われます。


敬虔な心で懺悔し
心に安らぎを与えよう
過ちを隠すと
煩悩が重なる


三月十一日に東日本大地震が発生してから一月あまりが過ぎました。地震、津波、火災、原発と複合的な災害が次々に発生し、今になっても収拾していません。復興の道は長く、被災された皆さんはいつになったら普段の暮らしに戻れるでしょうか。心が痛みます。

この世で災難が頻繁に起きているのは、天地が急を告げているのです。複合的な災害に対して複合的な修行を善用し、戒を守り、懺悔し、敬虔になり、斎戒をしなければなりません。懺悔はまず己の心を清め、人心を浄化することができます。人に懺悔を勧めながら、自分は懺悔しないのではいけません。

ただ斎戒するだけで真心がなければ、健康によくても徳行は損なわれます。人々が戒を守り、懺悔の上に真心から斎戒を行ったなら、慈悲智慧が複合的な功徳となり、天地を守ることができます。

災害はいつの日か鎮まりますが、人心にある瞋(じん)の火がもっとも恐ろしいです。人心の無明は絶えず悪癖の毒素を作り、心をぼんやりさせ、業を造るので、すぐきれいに洗い落とさねばなりません。着物についた汚れは長くなると落ちにくくなるように、無明の埃も一旦積もると、ますます厚くなって、落としにくくなります。懺悔することによって、生命の中に埋もれていた貪、瞋、痴、慢、疑という五つの無明の業を洗い落とすことができます。

業力は一筋の気流のように目に見えず、触れることもできません。しかしながら、無明濁気が合い寄って作った強大な悪業は、天地の平安を破壊します。悪癖を改めるには必ず心にある怒りの火を消す必要があります。そうでないと怒りの火は広野に燃え広がり、収拾がつかなくなります。

懺悔は念じたり拝んだりすることではありません。人間同士がお互いに純粋な心を以て、何事も善に解釈し、助け合うことが懺悔です。敬虔な心で懺悔する者は、心がのびのびと安らかになります。過ちを隠し懺悔をしない人は、煩悩という重荷を背負うことになります。

心身を清浄するに当たって最も重要な三つの方法は戒(かい)、定(じょう)、慧(え)です。「戒」は心身を保護し、定力が具わって、外部の影響を受けず落とし穴にはまりません。正しい「定」があれば、為すことは自ずと道を外れず、戒、定があれば「慧」は自ずと具わります。こうなれば、菩提の大道を平らかに広く遠くまで延ばしていきます。

 
法水を以て
心の垢を洗い
懺悔し反省し
無明が去ってから
初めて法悦が得られる

仏陀は二千年前にいわれました。「劫の濁乱の時は、衆生の垢重く」と。現在の社会を見ますと、人心にある多くの無明と煩悩のせいで是非の見分けがつかず、道徳心が薄れ、悪に走っても羞恥心が起きません。正に「衆生の垢重く」という劫濁の時代で、衆生の共業によってこの世は平穏になることができません。

業因の種子は一念から起き、身口意により業を造ります。人々はすぐに覚醒して清浄の源に戻り、心に懺悔の道場を建立しなければなりません。

修行する上で最も重要なことは悪癖を改めることです。懺悔して己を正し、徹底的に「大懺悔」を行い、心を清浄に戻すことです。絶えず無明を醸成すれば、今生の業力を来世にまで持っていくことになります。

皆がお互いに励まし合い、精進して法を心に入れることを期待しています。法水で以て心の垢を洗浄し、習癖を取り除いて懺悔を心に入れて、よく反省し無明を取り除くと自然に法悦を得られます。人々が軽安自在で煩悩がなければ、和やかな気流は大地を平穏にさせます。
 

悪念起きると
暗黒に陥る
善念起きると
世界が光る


人生の中で、誰に罪がある、誰が悪いというよりも、過ちがあればすぐに懺悔をして改めることです。しかしながら愚かで無知な凡夫は心の無明を放任し絶えず累積させて、煩悩を留め、自分で心を汚しています。

人の顔の汚れはよく見えるけれど、自分の顔にある汚れは見えないものです。人々がお互いに汚れを注意し、いつも心の鏡をきれいに拭うことを期待しています。悪念が少しでも起きると、暗黒の落とし穴にはまります。しかし少しの善念で光明を取り戻すことができます。

台中市にある南屯リサイクルセンターのボランティア、廖坤永さんは若い頃、二十年以上も麻薬のため刑務所に六回も出たり入ったりしていました。それでも目が覚めず、父親が亡くなった時は香典をつかんで麻薬を買いに行く有様でした。

母親だけは彼をあきらめませんでした。母親の友人で慈済委員の周素娥さんは、獄中への手紙と共に静思語を送って励ましました。その恩情に感動した彼は決心し、刑務所を出てから、慈済のリサイクルセンターへボランティアに行きました。ボランティアたちの愛と関心を受けて立ち直り、安定した職も得ました。

彼の心の中で善と悪が綱引きしている時、周りの善人が彼を見捨てなかったため、新たな人生を歩むことができたのです。人と人との間に称賛と関心があってこそ、幸福安泰な人生を築くことができます。もしも反省せず間違いを繰り返せば、心は穏やかになれず、禍の源が開け拡げられます。

人間(じんかん)菩薩は人の「助け人」になることを願い、過ちを犯した人を教え導いて改めさせ、この世に一人でも多くの菩薩、社会に一人でも多くのよい人がいるよう願を立てています。

もしも人々が善の心で出発できれば、「覚有情(かくうじょう 迷いから覚めた有情、あるいは覚りを求めて努める者)」になって相互に交流し、喜びを共有すると天下は自然に平和になります。人々が団結し、着実に苦難に苦しむ人に奉仕すれば、「福とは行う中に喜びを得ること、慧とは善に解釈する中に自在になること」の道理を会得することができます。人生が正しい方向に向かえば常に法悦の中にいることができます。


平安な人生は
実行している中から
心の調和をはかり
人心を浄化
勤勉、節約し
日々福を植える


毎年の旧暦三月になると台湾中部で行われる「大甲媽祖の行脚」は、台湾民間信仰の盛大なお祭りになっています。伝説では今の中国福建省に生まれた林黙娘媽祖は純真、善良な孝行娘でした。ある時漁に出た父親が暴風に遭いました。媽祖は海辺で敬虔に父親の無事を祈り、父親を救いたい一心で海に身を投じ、それに感動した天の神は波を鎮めました。漁民はその徳に感謝して廟を建立しました。

数百年来、媽祖信仰は台湾で盛大に引き継がれています。媽祖を載せた神輿(みこし)が行脚で訪れる町や村では、お通りになる時刻になると大勢の人がその徳と福にあやかろうと、争って神輿の下を潜ったり、触れたりします。敬虔な信仰心を表すため沿道でたくさんの爆竹を鳴らし、花火を上げます。

信仰とはその徳と行いを学ぶことで、敬虔な心で媽祖の孝と善を学ぶのです。人心が平安で孝行で善であることこそが媽祖の願いです。しかしながら、多くの人の信仰は徳を「学ぶ」ことではなく、名利の祈願になっています。

慈済人は、十三年間続けて媽祖が行脚にお出かけになっている間、人波の後ろに従って「媽祖の敬虔な弟子はゴミを落とさない」とのスローガンを立て、地面いっぱいのゴミを拾っています。腰を曲げてゴミを拾う様は、敬虔な礼拝さながらで、大地を清めると同時に己の心も清めています。

平安を求めるなら神仏の御加護に頼るのではなく、自分で励むことです。人々の中で福を植え、天理人理に順じ、清らかな環境を保てば、この世に平安吉祥が訪れます。




星が燦爛ときらめく夜空、周囲の世界は平穏静寂です。二千年前、釈迦はこんな境地で夜明けの明星の中で、宇宙の人、事、物、理の真理に透徹されました。

人々の心の光は、無数にある天空の星のように、夜の暗闇の中で大地に平和の光を添えています。人々は清らかな仏性を具えています。ただ凡夫は、昔より心が絶えず汚染され無明が生い茂っています。もしも、赤子の心で駱駝のような忍耐力、獅子のような勇猛さを発揮することができれば、仏と同等の円満で明るい智慧に立ち返ることができます。

《無量義経》に「微渧先堕、以淹欲塵(露のしずくが乾いた土の上に落ちると、そこのところだけ塵が立たなくなる)」とあります。心を常に法水で潤すなら、一滴一滴の法は知らず知らずの中に私たちの本性を潤すということです。

世間を清浄にするのは、人々の本性に湧いてくる清い泉です。《慈悲三味水懺》は人々の身業、口業、意業の良薬です。人々が懺悔、斎戒、菜食、環境保全をすることによって質素なライフスタイルに戻り、心身を浄化することを期待しています。共に大地と心を守りましょう。


(慈済月刊五三三期より)
訳・慈願
絵・葉錦蓉
 

" もろもろの侮辱や迫害を耐え忍んで恨まない人は堅実な人であり、どんな人にも、またどんな事にも打ちのめされることはない。忍び耐えることができてこそ、天下の大事を成し遂げることができるのである。 "
静思語