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10月14日
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ホーム ドキュメンタリー 東日本大地震援助活動 一通の日本語の手紙 被災者から証厳法師への感謝の言葉

一通の日本語の手紙 被災者から証厳法師への感謝の言葉

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「釈証厳法師様、去る3月11日の大震災で大変な災難に遭いました。今日まで苦しい生活が続いて来ました。そんな時、法師様の温かい援助の心で義援金を頂き、且つ慈済世界の人々の献身的な活動に出逢い、本当に有り難うございます。」この日本語で綴られた手書きの手紙は、支援団員の大きな励ましとなった。

残骸廃墟と隣り合わせの生活風景
慈済日本ボランティアの一行43名は、本日(6月10日)、陸前高田市のオートキャンプ場モビリアセンターハウスと長部小学校の体育館にて「見舞金の給付」活動を行った。翌日も見舞金給付の為、別の一行66名は釜石市の「災害対策本部」へと向かった。

現地へ向かう道中は見渡す限り、廃墟ともいうべき風景がただ目の前に広がっていた。津波の猛威が山の辺りまで届いたため、山肌の間に今でも当時から残ったままの布切れやビニール袋を見てボランティアたちは唖然とした。何一つ完全な姿をした物がない、その上、海水で土壌が塩化し、松林も見る見るうちに枯れていくのが分かる。遠方から一面に広がるひな菊が見える。まるでこの悪夢のような悲劇を追悼しているかのように、風に揺れている。一体、この災害はどれくらいの人々に苦難をもたらしたのであろうか、と思わず考えずにはいられなかった。

ボランティアらが午前7時にキャンプ場に到着すると、すでに多くのお年寄りが廊下で我々の到着を待っていた。ボランティアらは急いで椅子を下ろし、皆さんに座ってもらってから、すぐに会場の設置に取り掛かった。

一瞬にして訪れた無常 大愛はそばに
八十歳の及川守雄さんは暇つぶしに慈済の日本語簡易版を読んでいたが、ボランティアが近くを通りかかった時、頭を上げ、大きな笑顔でこう話しかけた。「私はまだ財産があるぞ!まだ屋根が残っている。」津波警報が発令された際、及川さんは奥様を別の避難所へ行かせ、ご自分は自宅の二階へと逃げた、二階に上がって間もなく、海水はゆっくりと彼の腰まで到達したという。「本当に恐ろしい!恐ろしい!」と当時の感想を話した。

及川さんは見舞金を受け取った後、帽子を下ろし、ボランティアらに深くお辞儀をして「これで食品を買うことができます。私は何にもなくなってしまいましたが、このお金があってよかった。」と話した。

前田哲平さん夫妻はまだ若く、我々の活動現場近くで静かに座っていた。前田さんは津波の前に、陸前高田市へ転入申請をしたばかりで、まだ手続きも完了していないうちに、津波に全てを持って行かれた。家を無くしただけでなく、哲平さんは一瞬にして四人の親族を亡くした。祖父母、弟、そして2歳のひとり娘までも。

哲平さんと奥様は大船渡市に勤務していたが、津波が来た際、祖母が高田保育所へ2歳の娘を迎えに行ったまま音信不通になり、居ても立ってもいられず、すぐに帰りたくても、交通機関が全てストップし、最終的には徒歩で、夜10時から翌午前2時の4時間かけてようやく陸前高田市に到着した、しかし高田保育所へ着いたけれども、既にそこには何も残されていなかった。「一生忘れることのできない苦痛です。」哲平さんは訴えた。

哲平さんの奥様の香瑋さんは携帯を取り出して、我々に娘さんの写真を見せて下さった。「津波が来た時、人間はまるで渦の中の一枚の葉みたいで、お婆ちゃんと娘が逃げられるわけないよ!」と泣いた。見舞金を配布する際、ボランティアは香瑋さんの手を握り励ました。哲平さんも「私はまだ若いので、亡くなった親族の為に何かしてあげたい」と語った。

台湾語のありがとう"トシャ"で感謝を伝える
太陽の日差しはますます強くなり、ボランティアの河村吉美さんは、並んでいる人たちに声をかけ、喉が渇いた人がいれば水を持って行ったりしていた。するとその時隣に居合わせた一人のご婦人が涙を流した。彼女は廣田に住む吉田千秋さんという方だった。吉田さんは、「私が泣いたのは悲しいからではなく、感動したからです」と語った。吉田さんは見舞金を受け取った際、現場で活動しているたくさんの慈済ボランティアの姿を見て驚いたと語った。吉田さんは家も仕事も無くしたが、今受け取った見舞金を大事にしていきますと話し、更にボランティアの手を取り、「他の慈済ボランティアに、私はとっても感謝していると必ずお伝え下さい」との言葉を頂いた。

見舞金を受け取る列に並ぶ一人のお年寄りの男性は突然日本語で質問をしたが、残念ながら台湾から来たボランティアには意味がわからず、急いで日本支部の前執行長を務めた謝富美さんを呼んだおじいさんは鵜浦正孝さんというお名前で、「台湾では"ありがとう"をどう言うか」と聞きたかったのだと分かった。

謝さんがおじいさんに「シェシェ」だと教えると、おじいさんは頭を横に振り、「違います、私が知りたいのは"中国のありがとう"ではなく、"台湾のありがとう"です」と言う。ようやく謝さんも鵜浦さんの質問の意味が分かり、「トシャ(台湾語のありがとう)」という言葉を改めて教えた。

鵜浦さんは見舞金を受け取った際に大きな声で、「トシャ!」と言った。台湾から来た慈済のために、おじいさんは台湾語で感謝の意を伝えたかったのだ。

支援団、不休不息の精神
朝の支給活動を終え、一行は休む間もなく、移動する車中で急いで食事を済ませ、次の目的地である長部小学校へと向かった。二回目の支給活動の途中に思わぬ渋滞に見舞われ、ようやく長部小学校へ到着した時には、時間前なのに、朝の初回支給の際にも似た光景があり、既に多くの方が見舞金を受け取る為に列を成していた。また同じころもう一行の66名の慈済ボランティアは釜石市への配布のため、愛をこめて現地へ向かっていた。

台湾本部と日本支部の66名のボランティアから成る慈済支援団は、翌早朝5時に車を走らせ、釜石市での見舞金支給活動へ向った。二時間ほどの道程を経てようやく釜石市の「災害対策本部」に到着。二日目の見舞金支給予定の世帯数は、約1414世帯だった。

慈済ボランティアは7時半頃に到着、対策本部のガラスドアに近づくや、すでに100名近くの方々が待機場所の椅子に座っていたが、到着した我々を静かに見ると、すぐにまたうつむいてしまった。

泰司お爺さんの心こもった手紙
一番前に並んでいたキャップをかぶった赤碕泰司さんは、突如ボランティアに「愛と関懐」の歌詞を書いたものはあるかと尋ねたが、あいにく大きいポスターしかなかった為、泰司さんは、バッグから筆記用具を取り出し、目を細め、首を伸ばし、一所懸命に歌詞を写した。その後、口を大きく開けて歌い始め、気がつけば、泰司さんもボランティアらと一緒にステージの上で、皆さんを元気づける役になり、場を盛り上げていた。

ボランティアから見舞金を受け取った瞬間、泰司さんの眼鏡の奥から涙がこぼれ落ちた。、その後ボランティアとともにソファーへ移動し、慈済の慈善についての説明を聞いて、見舞金に添えられた、証厳法師が被災者の皆様に宛てた慰問の手紙に目を通した。手紙に綴られた一字一句が心に染み入り、赤崎さんは感動で目頭を熱くし、再び涙を浮かべた。赤崎さんは今年すでに八十を数え、今世紀最大の津波に、これまで築かれた家とご家族を無情にも全てさらわれ、複雑な心境から未だに脱出することが出来ないでいる。

証厳法師の手紙は、赤崎さんに人間の温かみを感じさせ、彼は自分でも感謝を表す為に手紙を書きたいと思い、日本支部ボランティアの鐘さんから渡された筆記用具で、証厳法師宛の手紙を書き始めた:

「釈証厳法師様、去る3月11日の大震災で大変な災難に遭いました。
今日まで苦しい生活が続いて来ました。そんな時、法師様の温かい援助の心で義援金を頂き、且つ慈済世界の人々の献身的な活動に出逢い、本当に有り難うございます。
心より感謝申し上げると共に今後の皆様の御活動をお祈り致します。」

感謝の手紙を綴った赤崎さんから笑みがこぼれ、更に、見舞金とは別に封筒に添えられた慈済のUSBカードには、今回の震災に慈済が出動した場面と共に、気に入った慈済の歌が入っていることを知り、赤崎さんは「必ず大切にします。歌を練習しますよ。」と話し、一層の笑みを見せた。

赤崎さんはお辞儀をしてボランティアらに「さようなら」を告げ、ゆっくりと会場を後にした。赤崎さんの感動に貰い泣きしたボランティアらは同じく「さようなら」と深くお辞儀をした。赤崎さんにまた平穏な生活が再び戻るよう願っている。

本日一日で陸前高田市、釜石市で支給した見舞金は、計2694世帯分だった。

ボランティアらが学校を後にする際、学校のそばの仮設住宅に住むお婆さんが家の奥からわざわざ出てきて、我々に手を振ってお辞儀をしてくれたので、ボランティアらが驚いて喜んでいると、更に、「ほら、そこの窓からも手を振っている方がいる!」と。ボランティアらもずっと手を振り続けた。帰り道、前方のグランドでは野球の練習をしている子どもたちの姿が見える。。。。復興の希望が見える日は、きっとそう遠くはない。

文/張晶玫、古繼紅
訳/鄭文秀
 

" 【病のために貧しくなる】 貧困はほとんど「病」から起こる。時を移さずに病の予防や治療を施し、助けを受けた人たちが、再び立ち上がって家庭の責任を負うことができるようになれば、その家庭は元気を取り戻す。 "
静思語