慈済日本支部は7月22、23両日に、関東地方に移った岩手県陸前高田市と釜石市の被災者に対し、東京にある慈済日本支部で住宅被害見舞金を配付した。
遠く古里へ帰らなくても
見舞金が届ける
日本支部の慈済ボランティアは、東北地方を離れ東京に移った被災者の電話を何本も受けた。慈済は両市で住宅被害見舞金を配布することになっていたが、関東地方に現在住んでいる被災者は旅費を出して遠い故郷へ帰り見舞金を受け取ることが困難である。この事情を知り、東京都新宿区にある日本支部で配付活動を行なうことにした。
7月23日の午後、支部の一階にある静思書軒に陸前高田市と釜石市に帰ることのできない被災者達が集まってきた。姉妹や親子、家族全員でくる人たちもあったが、一人ぼっちの人もいた。
見舞金を遠慮した姉妹
品のよいある二人の姉妹は受付に来たが、罹災証明書を取り出して手続きをするのをためらっている様子だった。始めは義捐金を受け取るという心構えで来たのだが、この場の暖かい雰囲気を感じて、受取らないことにしたという。「だって私たち何のお手伝いもしないのに、台湾からの愛の寄付を受け取るわけにはいかないと思います」と姉妹は言った。
ボランティアは姉妹に、それならば見舞金を受けとって、亡くなったご両親のために寄付をされたらと勧めたが、彼女らは相変らず感謝の言葉を言いながら、このお金はもっと必要な人に配ればいいと言って遠慮した。
陸前高田市の高田小学校を卒業した臼井姉妹が住んでいた、小学校の前にある家は津波に流されたので、埼玉県に住む結婚したお姉さんの家に引っ越ししたという。今はお姉さんの家にぎゅうぎゅう詰めで身を寄せ合っているが、幼い子供二人を抱いて津波から逃れることができて本当に運がよかったと思っていた。津波の三日後やっと家族全員が無事だと分かり、生きているかぎり希望があるとしみじみと感じた。
目の前のものを大事にし
さらに人を助ける
「日本慈済世界」の隔月刊誌を読んでいた熊谷さんが、写真の中に知り合いを発見し喜んでいた。何冊も持ち帰り、この後あの友達に会うときにプレゼントしようという。熊谷さんは5月に被災地を離れ、東京の娘の家に来た。生きるからには、しっかりと生きていくという決意をし、これからは慈済ボランティアのように、有意義な奉仕をしたいと言った。
一人で来た佐佐木さんは津波で十何人もの家族を失った。今は茨城県で一人暮らしをしている。照れ屋の佐佐木さんも高田小学校の卒業生である。まさか台湾の人たちに援助されることになるとは夢にも思わなかったと言い、これからは勇気を出して生きていくと言う。
生まれ変わってから
ボランティアになる
畠山さんは東京支部に足を踏み入れたとたん、涙が止まらなかった。ボランティアの親切な応対や暖かい雰囲気を感じ、四カ月間ずっと張り詰めていた気持ちがやっとゆるんだようだった。この涙は悲しい涙ではなく、言葉では言い表せない感動だと言い、これからは慈済の活動に参加したいという。
若い熊谷さんのおばあさんと両親は住む家と一緒に津波に呑まれてしまった。彼はこれからボランティアのカメラマンとして、慈済の奉仕活動に加わりたいと思っている。
小笠原さんは三味線の先生。三味線は全部津波に流されたから、この見舞金でまず中古の三味線を買い、再出発したいという。
縁があってめぐりあい
お互いに寄り添い
今日はまるで高田小学校の同窓会のようだ。陸前高田を離れ、関東地方に移り住んだ人人は次から次へと日本支部に入ってきた。中塚さんは「不思議なご縁ですね」と喜んだ。みんな「日本慈済世界」に掲載された高田小学校で行われた配付活動の記事を読み、母校の写真を発見した。
午後の陽射しを浴びながら、被災した皆さんのお話を聞き、寄り添って慰めることができたことは何と幸せなことだろう、とボランティア一同思った。
文・許麗香 訳・林懿晨
編者按:
東日本大震災慈済災害援助配付団の第一陣は6月9日~12日、岩手県を訪れ6741世帯に対し、見舞金を配布した。第二陣は7月16日~18日、約6000世帯に配付した。