三十六年来、マリーママは
捨てられた五百人もの子供達を助けてきた
彼女の逞しいその身体で世間の無情の風から守り
強い母愛で育て、教え、導いて自立させた
自らが橋となって
子供達を希望の未来への道へ渡してあげたいと祈って
「Apartheid(アパルトヘイト)」という言葉はアフリカーンス語で、「区別されている」「分けられている」という意味である。一九四八年から九四年まで約半世紀に亙って、南アフリカ共和国には世界中で物議をかもした人種隔離制度があった。国連はこの制度を「人類に対する一種の犯罪である」といった。
そしてこの期間中一番大きな問題は黒人と白人との対立だけでなく、先住民の間でも様々な残酷な争いがあり、大きな被害を出したことである。
ハウテン州プレトリア地域最大の先住民居住地区スサングウェの出身で今年七十二歳のマリー・ルワトは、当時を回顧して言う。「考え方や風習の違いで村と村の間では闘争が絶えませんでした。家が焼かれたり、殺し合いは日常茶飯事でした」一九七五年、彼女は壊滅状態のある村にやって来た。人一人いないこわれた家の中から、かすかに赤ん坊の泣き声がした。それは生後三カ月位の男の子だった。親は闘争中に亡くなっていた。マリーさんがその子を抱いて警察に届けたところ、当時この様な状況の子供は数えきれないほどおり、警察もどうすることもできなかった。そこでマリーさんは決心した。彼女は子供のために手続きをして赤ん坊の名前の保護者欄に自分の名前を書き込んだ。
その時から彼女は町の孤児達を引き取って世話をするようになった。いつの間にか百人以上にもなり、「蓮花の家(Lotus Home)」という名の孤児院を設立した。人々は彼女をマリーママと呼んでいる。
孤児達を自分の子のように思う
あの時代には戦争孤児に限らずさらに多くのエイズ孤児がいた。南アフリカではエイズウィルスを持つ人は人口の四分の一にも達する。これは驚異的な数である。エイズの蔓延は、人々の生命を短くするだけでなく、もっと大きな問題は、孤児達をどうすればよいかということである。
一部の孤児達は親戚や知り合いに引取られたが、多くの子供達は街で浮浪児となり、生きていくため盗みやひったくりなどをするようになり、様々な社会問題を引き起こしている。もっと可哀相なのは、夜中や明け方に道端で誰にも知られず死んでいく子供達である。マリーさんが警察から引き取ったあの子供は、ある時誘拐されて一カ月以上も行方不明だった。一人の女がこの子に親切そうに話しかけ、「私と一緒にいらっしゃい。きっと勉強しなくてもお金もうけができるようにしてあげるから」と言って連れ去ったのである。
マリーさんは心配しあちこち探し廻った。まるで本当の母親が子供を探すように。一月あまり後、近所の人があの男の子を百キロ以上も離れた町で見たと教えてくれた。
「あの女は私の子供を連れ出して働かせていたのですよ。可哀相に暑い日射しの中で何か物を売っていたんです」。マリーさんはこの女をさんざんに叱りつけて子供を連れて帰った。今思い出しても腹の虫がおさまらず、「こんなに可哀相な子供を利用するなんてどういう神経でしょう。しかし残念ながら、こんな人も決して少なくはないのですよ」と言う。
複雑にもつれ乱れた歴史の陰には、人々の複雑な暮らしがある。マリーさんは、一人また一人と現れる不幸な子供達を見捨てることができなかった。彼女の暖かい羽の下に護られて、一九七五年から今までに世話した子供達は五百人くらいになる。
だが、それよりも人々を驚かせるのは、マリーさんが貧しく資金的援助もなく、そして高等教育も受けていないことだ。彼女はただ南アフリカにいる何千何百万人もの貧しい婦女と同じ普通の人間に過ぎないのだ。
貧しくても愛は満ち溢れている
南アフリカで子供を育てたり、孤児を育てたりすると、毎月政府からいくらかの手当をもらうことができる。しかし、マリーさんが育てている子供達のほとんどは、身分証明を出すことのできない子供達ばかりで、補助金をどのように申請するかその方法も分からない。
マリーさんはこれらの血縁関係のない子供を、夫の給料だけを頼りに育ててきた。しかし、子供が十三人になった時、さすがに夫もどうにもならなくなり、「私はもうやっていけないよ。といってこの子供達を捨ててしまうことはとてもできない」と言った。
夫は思い切ってマリーさんと離婚する決心をした。「彼は家を私と子供達に残して行きました」。トタン張りの廃木を利用して建てた粗末な家であるが、マリーさんはとても感謝している。
経済を助けてくれる人がなくなり、マリーさんは子供達の食費に頭を悩ませた。「私は農場からいらない野菜をもらいました。しかしそれもあったりなかったりです。私達がいつも食べるのは、少しの大豆にたくさんの水を加えたものや、トウモロコシの粉にお湯を混ぜたりしたものです」
「ある時私は車にパンを積んで売ってる人に、お金は明日渡すからと言って先にもらいました」。が、パン売りが翌日来た時にはマリーさんの姿は見当たらない。「私はかくれてしまったのです。そしてお金がある時少しずつ返すのです」同じことは子供の学校でも起きる。南アフリカの教育制度は二段階に分れていて、小学校が一年から七年まで、八年から十二年までは高校になっている。公立の学校の学費は相当安いけれど、学生達のほとんどは貧しい家庭なので、一部の学校では、入学後、分割で支払えばよいことになっている。
教育は絶対に大切なことで、貧乏から脱出するためには絶対に受けなければいけないとマリーさんは考え、すべての子供達を学校に行かせた。だが学期が終るころになってもまだ学費が払いきれていないこともしばしばである。「もし学校を追い出されたら、子供達は別の学校へ行きます。そこも追い出されたらまた別の学校へ行きます。一つまた一つと取りかえて勉強します。なんとか高校まで行かせます」。今までのこんな出来事を話しながら、マリーさんははずかしそうに顔をかくす。もしも彼女の皮膚が黒くなかったら、顔が赤くなっていたのではないだろうか。
日毎に増えていく子供達のために、マリーさんは服やフルーツジュースを作って売った。が、子供達は増えるばかり。どんなに頑張っても最後にはやはり商売をしている人達に寄付をお願いするよりなかった。
「自分で余計なことをするから私達にまで援助を頼まねばならなくなるんだよ」「子供達皆追い出してしまえばすべて解決するじゃないか?」。人々のいやみや嘲笑にはもう馴れっこになり、気にもしなくなったけれど……。
「いつも人が私に、どうしてやめてしまわないんだ。やらなければいいのにと言います」。マリーさんは苦笑しながら言う。物事がそんなに簡単に片付くなら何の苦労もいらないと彼女は笑う。
困った時に子供達の面倒を見るのをやめようと思ったことはないか聞いてみた。マリーさんはしばらくうつむいて黙っていたが、やがて頭を上げると目ばたきして、「本当にそう思ったこともありますよ」と答えた。その表情や言い方は、まるでどうしてそんな考えを持ったんだろうと自分を責めているようだった。「幸にも最後には失敗しましたよ」といった。彼女は自分の心の内にあるこわいもの知らずの強い愛に負けたのだ。
黒と白の人種にも
似通った所がある
一九七五年から一九九五年の二十年間、マリーさんはただの一日も苦労なしに過したことはない。自分はこの調子でいつまでやっていけるだろうなどと考えたことはない。心の中にあるのは子供達の次の食事は一体どうするか、街のどこかに彼女の助けを待っている子供はいないかという思いだけである。
一九九五年五月。彼女の住んでいるスサングウェ地区で大規模な種族と政党の争いが勃発した。この騒ぎの中で意外にも一筋の光が彼女に向って射して来た。
「それは東洋人が行ったお茶の会で平和の光という名の夜の集りでした」。話しながらマリーさんは思わず笑い声が出て来た。「この人達はお揃いのブルーのシャツを着た本当に勇気ある人達です。白い皮膚をしていながら私達の地区に平気で入って来ましたよ。しかもあの争いの最中にですよ」あの時代、白人の優越感に押され、さまざまなコンプレックスを抱いていた先住民は、子供達に「白人を相手にしてはいけない。あいつらはお前達に対して決してよいことはしないから」と言っていた。その頃一人で二十数人の子供を養っていて、もうどうにもいかなくなっていたマリーさんにとって、白人に対するおそれと向い合うことは別に何ということでもなかった。東洋人も白人の部類に入っていた。この東洋人達の情熱的な誘いを受けて、マリーさんはヨハネスブルグでの茶会に参加した。「目的はただ一つ。それはあの人達に向って援助金を募ることよ」ヨハネスブルグに着いてマリーさんは、この人達は台湾から来た慈済基金会のボランティアであると知った。そして南アフリカで何年も前から慈善事業を行っていることを知った。「あの時ボランティア達は孤児達のことを聞いてくれたばかりか、私にたくさんの食物や衣服を持ち帰らせてくれました。それは私達にとって一番必要なものでした」しばらく経って慈済のボランティアは、マリーさんの家を訪問した。そして彼女と子供達がせまいトタン小屋に住み、凸凹の地面に寝ているのをみて、マリーさんの善の心に感動して援助することを決めた。一人のボランティアは売るつもりでいた家を彼女のために寄付してくれた。「これは私の考えも及ばないことでした」とマリーさんが回顧して言う。
「それだけではなく、あの人達は毎月食物や生活用品を持って来てくれました」。彼女が一番感激したのは、慈済ボランティアがすべての子供達の学費を出してくれたことである。「子供達はやっと堂々と安心して教室で授業が受けられるようになりました」こんな「白人」にマリーさんは本当に感動した。そして分ったことは元々皮膚の黒い白いには別に何の違いもないということである。「私達の心の中にある愛は皆同じなのです」。マリーさんは心からそう思った。「慈済はいつも私達と一緒でした。私達に対する心はずっと変りありません」
出合ったのも何かの縁
今までに大人になり独立して出て行った者を除くと、現在では蓮花の家には二百六十人の子供がいる。慈済ボランティアが長い間断えることなく応援してくれるおかげで、マリーさんの仕事は段々順調にいっている。また、人々からも認められるようになった。警察は保護を必要とする家庭内暴力の被害児童や孤児を彼女に預ける。彼女は大統領にも謁見した。
蓮花の家は段々といろいろな人達に認められ援助が得られるようになった。「私達が本当に感動したのは彼女が一切自分の利益を考えないことです」。慈済ボランティアの呉淑津さんは、以前にマリーさんと一緒に地域の孤独な老人や重病人を見舞った。「見馴れた衣服や毛布類を見かけることがあります。それは私達がマリーさんに分けてあげたもので、彼女がそれを必要とする人々に分けてあげたのです」
「使う分があればよいので、余分なものは必要な人に分けます」とマリーさんは言う。蓮花の家に入ってみると家の中はきちんとよく片付き、機能的だ。余計な家具は一切なく、設備などもマリーさんの言うように足りればよいという程度のものである。
毎日お昼には、蓮花の家では地域内の四十世帯の極貧の人達のために昼の食事を作って配っている。近くの学校に届けることもある。もしかしたら貧しい学童達にとってその日唯一の食事かもしれない。
隣りの州から来ている二十一歳のガヴァザさんも、マリーさんと慈済の援助を受けている一人である。
「もしマリーママの助けがなかったら、私はきっと母や祖母と同じ路を歩いていたでしょう。ただ人にやとわれて下働きの仕事をするだけ」。ガヴァザさんの家は貧しく、父親がいない。小さい時から成績優秀だったが、大学入試に受かったとき、母から「お前にこれ以上勉強させてやることはできない」と言われた。叔父さんが駆けずり回って千五百元ランド(約一万六千円)のお金を準備してくれたが、一学期の学費は一万八千ランドで、とても足りなかった。ガヴァザさんは絶望していた。学問への情熱はあったが、どうしようもなかった。
後になって、ガヴァザさんの先生はマリーさんのことを知り、支援を求め奔走した。「私は本当に何の期待も持っていませんでした。家族だってどうにもできないのです。世の中に誰が見も知らぬ私に援助の手を差し伸べてくれるのです」と、ガヴァザさんは言う。しかしマリーさんは快く承諾してくれた。そして慈済のボランティアに助けてくれるよう頼んだ。
今年ファッションデザイン科四年生になったガヴァザさんは、慈済の奨学金をもらい、順調に卒業する見込みである。マリーさんは、「これは貧民区に育った女の子にとってどんなに困難なことでしょう。慈済ボランティアがお手伝いしてくれたおかげです」マリーさんの言葉に呉淑津さんは言う。「私達は彼女の地域でのいろいろな働きに感謝しなければなりません。私達が募った品物はみな、彼女を通して必要としている人達に分け与えられているのです」。長年地域でボランティア活動を続けてきたマリーさんは、慈済ボランティアと先住民地域の掛け橋になっている。
十二歳の時、両親が相次いで亡くなったオレコパンツエさんは、親戚の家からも追出されて、マリーママの家の一員となった。身を置く場所を得て、マリーママの無私の愛と優しさに包まれても、小さい時の悲しい記憶は彼女につきまとっている。高校の時、彼女は何気なく南アフリカ憲法を開いて見た。その中の一句に「誰にも生存の権利がある」とあり、心に深く響いた。「本当だけど、でもそれには運が必要。私は運がよかったのでマリーママに巡り会えた。そして生きる権利を持つことができた」と言う。
十九歳のオレコパンツエさんは、表情が明るく若さに満ち、また法律学科の生徒らしいはっきりした口調で話す。「マリーママは心が非常にしっかりした強い女性です。だからどんな困難に出合っても私達を見捨てたりすることはありませんでした」と言う。彼女が大学を受験する時、蓮花の家は学費を出すのは無理だろうと心配したが、マリーさんは彼女を励まし、「頑張って大学に受かるように、私達みんな願っていますよ。その時にはどんなことがあっても必ず支援してくれる機会を見つけるから……」と言った。
「法律学科を受けようと思ったのは、マリーママと同じように、人のために役立つ人になりたいからです」とオレコパンツエさんは言った。彼女は現在、市内の大学で勉強している。生活は前よりも楽になったけれど、以前と同じように倹約して生活し、努力して勉学に励んでいる。「マリーママの愛を無にせぬように孤児院のほとんどの子供は皆努力し、頑張っています」と話す。
慈済の援助に感謝して、カソリック教徒のマリーさんは仏教を意味する蓮花を孤児院の名前にした。だがマリーさん自身こそ一本の蓮花そのものである。優しい花びらで子供達を暖かく包み護り育てている。ある日子供達はこの蓮花を跨いで外の世界へと出ていく。そしてマリーさんの見守りの中、泥の中に咲いていても泥に染まらぬ蓮の花のように、しっかりと正しい道に向かって歩んでいくことだろう。
マリーママの蓮花の家は、孤児達の希望の場所であり、心の故郷である。
慈済月刊五三四期より
文・凃心怡
訳・張美芳
撮影・林炎煌