南アフリカの東海岸に位置するダーバンは、ヨハネスブルグとケープタウンに次ぐ南アフリカ第三の都市であり、インド洋海岸に面した観光地である。
碧天の下、波のおだやかな海辺では、毎日観光客が泳いだり、サーフィンをしている風景が見える。インド洋の海水は冬でも平均温度は摂氏十一度以上ある。年間を通して温和な気候で、「南アフリカのマイアミ」と称されている。
海岸に面したレストランで、台湾から来た潘明水が「ここは本当に天国のようだ」と風に吹かれつつ笑顔でつぶやく。
彼は勢いよく蒸気を吐いている貨物船を眺めながら、「時には私は自分の人格が分裂されるような気分に襲われる。私はいつも天国と地獄の間を行ったり来たりしている……」と語る。
自分はよく変わり者だと言われると潘明水が言う。このすばらしい海岸の近くに住んで人生を享受せず、朝から晩まで人々が恐れて避ける遠方の集落に入り、黒人の援助に明け暮れるなんて、と人は不思議に思う。
彼は商売をするため、はるばる台湾から南アフリカに渡り、成功した。天国のようなダーバン市に居住する一方、地獄のようなダーバンの奥地に入って命がけで奉仕をしている。
大愛が海を越える
一九九〇年、潘明水は台湾から南アフリカにやって来た。商売に長けていた彼は、早々に取引の地盤を築き上げ、成功を収め、政府の高官とも親しく付き合っていた。
ある日、市長の秘書からの電話を受け取った。アジア系の女性が市政府に陳情に来たが、英語ができず話が通じないので、潘明水に通訳に来てほしいというのである。
「その女性は慈済ボランティアの荘美幸さんで、ダーバンの街頭で大勢の浮浪児を見て気の毒に思い、市政府に浮浪児を助けてほしいと陳情したのでした。しかし彼女は英語が全く話せなかった」。その時、潘明水は彼女は頭がおかしいではないかと思った。言葉も通じず、道も知らないのに善を尽くしたいとは? しかし故郷から幾千里も離れたこの遠い地で同郷に出会った縁に導かれ、彼は荘美幸の「通訳官」になった。
一九九四年、台湾の慈済ボランティアたちが「愛を南アフリカに送ろう」のキャンペーンを発起した。潘明水は通訳の手伝いだけでなく、実際に奉仕活動にも参加するようになり、田舎の貧しい黒人集落に足を運ぶようになった。
その年の冬は例年よりも冷え込み、摂氏七度以下の寒さであったので、ボランティアの施鴻祺はタートルネックのセーターに分厚いオーバーコートを重ね、貧困家庭の訪問に出かけた。途中、震える両手をすりあわせ、寒さをしのいだ。
しかし、貧困家庭に着いて目にした光景は驚くべきものだった。なんと彼らは半そでの薄いシャツに半ズボンの姿! どうしてこんな……と聞けば、彼らは「私たちには着る服がありません」と答える。
施鴻祺は彼らが着る服に事欠いている様子を台湾の慈済本部に知らせた。慈済のリサイクルセンターは、施鴻祺の呼びかけに応え、古着を集めてきれいに洗い、アイロンをかけて丁寧にたたんだ。製造工場からもサンプルや古い在庫品を寄付してもらったが、その中にはまだ値札がついている新品もあった。
「二つのコンテナ一杯に積んだ衣類は、広いダーバンにいる多くの貧困者みんなに行き渡る量ではなかったが、私は決して無駄に配付しなかった」。台湾から南アフリカに衣類を贈る計画を聞いた潘明水は、かつて輸出の経験があり、商品の包装や分類の方法をよく知っていた。彼は、台湾側で古着を整理するボランティアに、分類をはっきりしておくと、受取った側はその後の整理や配付に助かると伝えようと、わざわざ台湾へ飛んだ。
ところが、潘明水は台湾でボランティアの仕事ぶりを見て非常に感銘を受けた。「包装は大人用と子供用に分け、さらに大、小のサイズに分類し、一枚ずつきれいにたたみ、ダンボール箱に入れてコンテナに積み上げていた。まさにプロの手並だ」と褒め称えた。
一九九四年、二つのコンテナは二十二日間船に揺られ南アフリカに着いた。これらの衣服には大勢の人の愛と思いやりが込められているのを知って、潘明水は「このように偉大な愛が込められた衣類を簡単に配付してはいけない。必ず一番必要とする貧困者の手に届け、最大の效果を発揮しなければならない」と言った。
最も貧しい人を探して歩く
潘明水は知人を通じてズールー族の各集落の酋長に関する情報を集め、集落を訪れるとまずズールー語と英語の分かる人を探して通訳に協力してもらう。謙虚な態度で酋長の同意を得た上で、貧困者の家庭訪問と配付リストを作成する。
潘明水は人助けの気持ちを常に胸に抱いている。「彼らの住む家はダンボールと破れたビニールシートで覆われていて、雨が降ると雨漏りがし、強い風が吹くと何もかも飛ばされてしまう。無一物となり、着の身着のままの彼らの姿は本当に気の毒である」
一九九四年十月から翌年四月まで、潘明水とボランティアたちは半年かけて、ダーバンの各集落を回った。その地域範囲は台湾の面積に等しいほどだった。昼間は各地域を訪ね、夜は資料を家に持ち帰り、家族に手伝ってもらって資料を整理して一冊にまとめる。台湾から贈られた古着を最も必要とする人に贈るため、配付対象を入念に選定しようと思ったからだ。
この作業を通して、潘明水は南アフリカには貧困者が多いことに驚く。慈済はその中から八千世帯の最貧困家庭を選び出して配付対象に決めたが、当地の牧師に警告された。「集落の全世帯に配付すれば歓迎されるが、あなた方のようなやり方だと争いが起こり、死傷者が出る恐れがあります」というのである。結果は果して、潘明水たちは本当に争いの場に遭遇することとなった。
配付の日、配付対象に選ばれなかった百人近い住民たちが、一団となって慈済ボランティアを取り囲んだ。怒りで大声で叫び威嚇する彼らに、潘明水は落ちついて、酋長に通訳してもらって話した。「たくさんの人たちが援助を必要としていることを、私たちは知っています。しかし私たちには今、これだけの服しかありません。これは一番困っている兄弟姉妹に贈ります。彼らは私の兄弟姉妹であり、またあなた方の兄弟姉妹ではありませんか?」
集落内の婚姻関係は非常に緊密で、みなお互いに親戚関係にある。目の前で怒りに拳を握っている人々を見て、潘明水は続けて「どうして私が物資を最も困っている人たちに分けることに反対するのですか? どうして彼らを優先的に援助させてくれないのですか?」と話した。
真心のこもったこの呼びかけで、この場は収まった。こうして、台湾から贈られた愛の衣類は、一九九五年、南半球に冬が訪れる前に無事八千世帯の住民に配付された。
勇気の前に恐れなし
危険な地に入って貧者を救う
衣類の配付に当たって、潘明水が半年間荒野を駆け回って各集落を調査して得た貴重なデータは、慈済がダーバンで慈善事業を行う基礎となった。同時に集落の実情の調査も始め、潘明水自身も黒人社会に関心を抱くようになった。
「初めて南アフリカに来た時、危険だから決して黒人居住地区に入ってはいけないと警告された」。長年のアパルトヘイト(人種隔離政策)により、黒人と白人が厳重に隔離され、政党の闘争で黒人の各民族が殺しあう状況にあり、一人で黒人居住地区に入るのは極めて危険だった。怖くはないかと聞かれる度に、「全然!」と笑って言う。
これが潘明水である。人がやりたがらないことをする彼の心は、草原を駆ける獅子のように勇ましい。警察さえ入るのを恐れる戦地にも入って行き、対立している両方の群衆に平和を呼びかけ説きふせる。
「私が初めて黒人居住地区に入った時、両派の群衆が戦っていた。こちらの群衆が向うの方へ火を放ちに行けば、あちらの方が殺しに来るといった状態だった」。政府は装甲車を出動させ、双方の紛争を調停するが、潘明水は少しも恐れず、両方の中間に立って平和を呼びかける。「彼らは私の行為にあっけにとられて、この世の中にこんな奇人がいるなんてと思ったらしい」
潘明水と知り合って十数年になるズールー族の慈済ボランティア、ゴレディスは傍で聞きながら、「華僑の人が九人乗りの車を運転していたら、はっきり見えなくても、きっとマイケル(潘明水の英語名)にきまっていると思う。あの変わり者でなければ誰もここに入って来ないもの」と付け加える。
ボランティアを集め
木の下でスピーチ
一人でどれだけの仕事ができるのか。潘明水が善行の行列に加わってから、よくこの問題について熟考する。
「この両手でどれだけのことができる? 一人の病人を世話するだけでも間に合わない。この両足でどれだけ遠くへ行ける?」。彼は證厳法師がかつて慈済病院を建てる時、ある一人の日本人が巨額の寄付を申し出たのを謝絶したことを思い出した。
法師さまは多くの人が愛の行列に参加することを願っていたのだ。「塵も積もれば山となる」。潘明水は再び集落に入って大きな木の下で群衆を集め、喉をからして大声でスピーチを始めた。一度話し出すと、三、四時間も続く。
「彼らは我々とは違う。重点だけ言っても忘れがちになるので、いくつかのストーリーを組み合せて、彼らを感動させるように話す」。演説が終わったら、彼は住民の家を一軒ずつ訪問し、皆で村全体のことについて関心を持つよう働きかける。
潘明水はこうしてボランティアを募集した。十七年の間に、ダーバンでは五千人余りの現地ボランティアが誕生した。彼らはほとんど貧困者だが、善を行うことには堅固な意志を持っている。ダーバンに五百カ所を超す職業能力開発訓練所を設立して、女性に裁縫技術の訓練を施し、収入を得るようにして、暮らしを改善させた。百二十六カ所で野菜を作り、温かい食事をこしらえて、五千人以上の孤児に配付している。ボランティアたちは集落の隅々まで行って援助を必要とする貧困者を探し歩いた。
潘明水は、かつてアパルトヘイトにより白人は黒人を差別してきたと言う。彼の顔は黒く焼けていたが、黒人から見れば「白人種」に入る。「私が彼ら黒人に近づいて抱擁し、家族のように接したら、彼らは感動しました」
数年前に、潘明水の父親が病気をしたので、台湾に帰り父親を世話する決心をした。現地のボランティアは金を集めて贈り物をあげたが、この時、潘明水は「以後こんなことをしないで下さい。そんなことより、もっと必要とする人を助けてあげて下さい」と話した。
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ダーバン地区には五千人ほどの現地ボランティアがいるが、台湾に行ったことのある者はたった十数人しかいない。ほとんどの者は證厳法師に会ったこともなく、言葉も皮膚の色も違うけれど、善に励む心は堅固である。
潘明水はよく言う。「彼らと證厳法師さまの間には幾世代にも亙る因縁がある。私は車でアフリカの草原を駆け回ったときに彼らに出会えて、彼らを法師さまに繋ぎあわすことができたのです」と。
若い頃、潘明水は慈済のボランティア活動に参加するのを気恥ずかしく思っていた。ボランティア訓練で皆は白いズボンと白い運動靴をはいていたのに、彼一人だけがわざと黒い皮靴を履き、講義中は皆が正座しているのに、彼はいつも足を組んで聴いていた。
あの黒い皮靴を履き、足を組んで講義を聞いた男が、今、南アフリカで現地ボランティアを大勢率いて奉仕をしているとは、誰が想像できるだろう。現地ボランティアはいつも彼に、「マイケル、私たちのそばから離れないでくださいね。あなたがいなければ、私たちはどうなるでしょう?」と言う。すると彼はいつものようにユーモアたっぷりに、「私もいつかは死にます。もし死ななければ化け物ですよ」と返す。そして、「あなた方が私を必要なのでなく、他の人があなた方を必要とします」と言って励ますのだ。
慈済が南アフリカのダーバンで善行を始めたのは、英語のしゃべれない慈悲深い荘美幸から始まり、さらに潘明水が引き継ぎ、その後に五千人余りの現地ボランティアがバトンを引きついでゆく。善の宝を世々代々伝えていき、いつかは地獄が天国に化すだろう。
◎文・凃心怡/訳・重安/撮影・朱恆民