【證厳法師のお諭し】
宗教とは
愛と善美の生活教育です
心を広く持ち
宇宙の人生真理の探索に
人を導きます
単純な信念を保ち
何も求めず大愛の奉仕のみです
数カ月前、外国の雑誌に掲載された「地球の生命力」というレポートに、人類が天然資源を消耗する速度は、地球が供応できる範囲を遥かに超えているとありました。すでに地球資源の半分を借り越している深刻な問題を、人類が直視し、力を合わせて解決しなければ、地球が二つあっても足りません。
私たちは、風雨が順調で五穀豊穣、何不自由のない生活を願います。ただしこれには一人一人の覚悟が必要です。天地万物に対して戒を守り、以前の純朴で無駄遣いをしない生活に戻って、省エネに努めれば願いは叶えられます。
日々戒を守り常に誠実でなければなりません。今年五月の第二日曜日は灌仏会と母の日、そして慈済記念日と三つの祝日が重なりました。世界三十四の国々にいる三十五万人以上の慈済人は、それぞれの所で慈済灌仏会に参加していました。
各宗派の人々がこぞってもり上げる会に参加する人たちは、年々増えています。世の中が平和で、人々が平安で、天下に災難がないようにと三つの願いを共に祈る荘厳な光景は、さながら菩薩が雲のように集まる霊山会を彷彿させ、私の感動と感謝は言い表せません。
宗教は愛と善美の生活教育です。信仰の違いによる区別にとらわれてはなりません。人々が広い心を持って、宗教の違いという偏見を乗り越え、お互いを尊重し、感謝の心で浴仏の盛会を繰り広げた光景は整然とした美しさでした。この宗教を超越した「善念の共振」は人間永劫の真善美です。
法を以って
心を清め
愛を用いて仲間とふれあい
堅固な信念で
善の力を
無限に伸ばしましょう
今年、香港の慈済人は香港の金融界、商業センターが立ち並ぶ繁華街「中環遮打道」で灌仏会を挙行しました。いつもは絶え間なく観光客の行き交う路上で、慈済人が灌仏会の会場設置とリハーサルを始めると、忽ち人々の注意を引いて取り囲まれました。両手を合わせ荘厳に仏号を唱えながら、整然と並ぶ老若男女の参詣の列に外国人までがその後に並んで、敬虔に浴仏(仏陀のみ像に甘茶をかける儀式)をしました。
その日は、ちょうど物価の高騰、所得不平等に抗議するデモが行われていました。そのデモ隊が浴仏会場に近づいてきた時、慈済人は一緒に浴仏しましょうとデモ隊の人たちを場内へ案内しました。社会の現状が不満で、心が高ぶっていたデモ隊の人たちは浴仏の列に並びました。司会者の「仏に浴仏を、お花を捧げて」の言葉に合わせて参拝する中、心が静まって天下に福あれと一緒に祈りを捧げていました。
人の心に「貪、瞋、癡、慢、疑」の五欲が燃え盛ると、この世に絶えまない災難を引き起こします。仏陀がこの世にこられたのは、その機に応じて衆生をお導きになるためです。乱れた社会には正法が必要で、それには人々が心を調和させ、お互いに尊重と感謝でふれあうことです。人々が堅い信心を持ち、清い善念が集まると、善の力は強くなります。
法を良薬と為して
心の病に対治し
精進し
怠惰を慎みましょう
昨年から、慈済は「法は水の如く譬えられる」の経典劇を推進しています。世界にいる慈済人はそれぞれの地域で、読書会、修行を行って今に至っても霊山法会(読書会と修行の集い)は散ることなく続いています。
カナダに住む林玉如おばあさんは今年八十五歳ですが、「経蔵」の読書会が始まってから欠席したことはありません。三月のある日大雪が降りました。皆は「こんな寒さではおばあさんは来られないでしょう」と言っていましたが、おばあさんは深い雪を踏んできました。皆はその熱心さに感動しました。
玉如おばあさんは皆に「とても慈済に感謝しています。私にこんな充実した日々を下さって、この年になってもまだ読書会によって道理がよく分るようになりましたから」と言いました。それでこの機会を逃さずと雪を踏んで来たのです。
仏陀は衆生の根機に応じて、法を良薬とし、人々の心霊にある病の元を治されました。「布施」を以って吝嗇を済度され、「持戒」を以って犯をおかさせず 、「忍辱」を以って瞋恚を済度され、「精進」を以って怠惰を度され、「智慧」を以って愚痴を度され、人々に慧命の成長を促されました。
多くの人は仏法に触れした後、自分を見つめ直し過去の過ちを知ることによって、懺悔し悔い改めを発願します。しかしながら時が過ぎると、怠け癖は頭をもたげ、一回くらい読書をさぼってもどういうことはないとか、よいことは暇があった時にやればいい、悪い癖はゆっくり治せばいい等等と、道心は次第に薄れて、すぐ「元の木阿弥」になります。
人々には元より清らかな仏性が具わっています。ただ多くの人は無明煩悩に纏わりつかれると、たとえ仏法を聞く縁に恵まれていても、理解できているとは限りません。しっかりと覚えて実行し、さらにそれを人々に話すのです。
「ほどほど」という態度は判断のつかない優柔不断が原因です。僅かな差、あんなにも「少し」なのにという甘さは、善法に「漏有り」ということで最も微妙で真実の法を理解することができません。
一般の人は「大きな過ちは簡単に改められますが、小さな過ちを改めるのは困難だ」と言います。しかし小さな癖、少しの過ちを、完全に取り除き改めるのは、そんなに難しいことではありません。常に精進し、法水の中に浸ることができれば、愛のエネルギーを持ちこたえて心の垢、悪癖を取り除くことができます。
皆さんが精進を以って人生の模範になることを期待しています。そしてお年寄りの勇敢な奉仕の精神を学び、何時も法を心に己れへの警戒を怠りませんように。
困難な道を
一歩一歩前進し
菩薩の十地を
円満に踏みしめましょう
仏法を聴いて心に喜びを感じ「甘んじて為し、喜んで受ける」ことを発心立願したことは「菩薩の十地」の中の一番目の地「歓喜地」です。また大乗心を発した菩薩の第一歩を「初地」と言います。
無明の凡夫は、繰り返される煩悩に覆われて、容易に発心しても、持ち続ける心は容易ではありません。心が垢に染まると、環境に影響され菩薩道は前へ進めません。「離垢地」とは常々警戒を怠らず、喜んで奉仕し善事を為し、さらに煩悩や他人とのしがらみから離れられると、菩薩道を堅く持つことができると言うことです。
無明から離れ道心が堅ければ、心に暗闇がなく智慧の光は自然に現れる、これが即ち「発光地」です。この智慧の光は自分を照らすだけでなく、人をも照らし大衆に発菩提心を呼びかけ、共に菩提道を歩んで、無量無数の善事を成就させることができます。これが「焔慧地」です。
「難勝地」とは菩薩道における善と悪の綱引きを指します。困難を克服し、困難をものとせずに現実の環境に惑わされずに目標に突き進む必要があります。困難を乗り越えた後には平坦な道が現れます。これが「現前地」です。周囲の環境に誘惑され怠け心が出ないように、正しい方向に向ってしっかり前進することが「遠行地」です。
奇特な因縁を得て、菩薩道に発心したからには堅い道心、煩悩に動じない心これが「不動地」です。正しい方向、平坦な道路はさらに福慧双修の精進が必要です。「福」は自分の善から、その善は慇懃で、建設性のある愛の力に化し、世の中で衆を度して智慧を得る、これが「善慧地」です。
十地に至る菩薩は周囲の境地に妨げられないものの、やはり僅かながら無明を帯びて、霧のように心を覆います。十番目の「法雲地」とは、法の智慧を以って「法」で「雲」を払い、日を見い出してあまねく甘露を注いで人の心を潤し煩悩を取り除きます。
菩薩道は遠いように見えますが、心して努め励めば到達する日がやってきます。人々が着実に精進を怠らず、清い智慧無私の大愛で慈悲を呼び起こせば、十地円満の境地に至ることが叶います。
智慧の増長は
欲念を取り除き
立信願行もろもろが
円満になります
仏典の中に故事があります。
一人の商人が一心に福を求めていました。商売が成功して天下の財富を一手にできますようにと願っていると、ある人が名案があると言いました。「毎晩、最高の柴で火の神様を拝めば、財富は燃え盛る火のように勢いよく入ってくる」と。そこで、商人は人を雇って山へ柴刈りに、そして最もよい柴を燃やして、三年間欠かさず火の神様を拝んでいましたが、商売は儲かるどころか日に日に悪くなりました。
別の人が言いました。「毎日太陽と月の出る前、盛大にお供え物を用意して敬虔に拝めば、毎日お金が転がり込んでくる」と。そこで鶏や山羊などのお供え物を捧げ三年間毎日拝みました。商売はますます悪くなって財産まで使い果たし、その上病に倒れました。
長年に亙って拝み続けても願いは叶えられないばかりか、心は煩悩に満ちて苦しみました。仏陀は覚者と皆が言っているので、祇樹給孤独園(祇園精舍)へ行って説法を聴くことに決めました。
仏陀を見た商人は大声で涙ながらに、心を尽しても叶わなかった財富名利を訴えました。仏陀は「あなたは財を求めるために大量の木を切って燃やした。多くの動物を殺し生贄として神に祈った。その造った業は大海のように大きいのだ。どうして福が得られよう」と。そして「今から父母に孝行、善行を発心し、心の貪、瞋、癡、慢、疑を取り除きなさい。正法を信じなお法に入り精進すれば、心身の安住が得られます」とおっしゃいました。
それを聴いた商人はその意を深く理解し、過去の愚かな過ちを懺悔したら心の病がなくなりました。信心が芽生えた商人は帰ったら正直に商いをし、社会に尽すことを決意しました。
事業発展のため、財産のための生涯は福なのか禍だったのでしょうか。誰にも分りません。
智慧のみなもとが増さなければ、正信、生見、正念を以って種々の無明欲念を取り除くことはできません。一念がかたよっていると生涯の過ちになって、世世にわたる迷いの道に陥ります。
人々に期待しますのは、正信の力を以って大願を立てることです。信、願、行が具わってこそ、もろもろの事は円満にはかどり智慧が得られます。
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仏陀がこの世においでの頃のある日、波斯匿王が面会に来られました。仏陀は全身埃にまみれている王を見て、「あなたはどんな大変な仕事をされたのですか。とてもお疲れのようにお見受けしますが」とお聞きになりました。
波斯匿王は「私の国でお金持ちの人が亡くなりました。彼の財産を受け継ぐ人がいないので国庫に納入することになり、私はその財産の点検をしていたのです」と。
仏陀は納得がいかず「そんなにお金があるのにどうして継承する人がいないのですか」と。
波斯匿王は「その人は金持ちですが、根性が非常にけちで、ふだん食べる物から着るものまで惜しみました。両親は世話をして貰えず仕方なく友達の家に行きました。妻も我慢できずに家を出て家族はばらばらとなり行方不明です。一人になって落ちぶれ病気になっても、看取る人のいないままとうとう亡くなりました。亡くなっても処理する人がいなくて、しかたなく国で処理することになったのです」と。
王が蔵を開けると高値な宝石類がぞくぞく出てきました。そして仏陀に「彼はこんな多くの財産がありながら、生涯ぜんぜん使っていません。来世はどうなるのでしょう」とお聞きしました。
仏陀は「彼には無駄な財産でした。父母に不幸、妻子に対しても思いやりがなく、けちで布施はなおのこと、来世は三悪道におちます」とお答えになりました。
王はそれを聞いて畏啓の念がわき「私はこれから自分を戒め、善事を尽して貧しい人を助けよう」と心に決めました。
福は人間にあります。戒を守り感謝の心を持ち、福によって福を修め、さらに人々とよい縁を結べばよい因の種があります。福があるからと享受に浸たったり、または吝嗇にとらわれて布施をしないのではいけません。
この世では、正確な人生観を立てねばなりません。生命価値を力強く発揮し、怨み悔いのない慈悲の大愛を発揮してこそ人生最大の価値といえます。
仏法があまねく世に伝わり、人々がまじりけのない一念を守って人生の真実の道理をしっかり理解できるよう期待しています。心に愛をもって、何ものも求めない無私の奉仕、それが人間浄土です。皆さんが心して精進しますよう願っています。
◎訳・慈願
(慈済月刊五四六期より)