レソトはアフリカ南部に位置し、首都はマセル。一九六六年十月四日に英国の委任統治から独立した。四方を南アフリカ共和国に囲まれた世界最大の「国の中の国」である。極度の自然資源の不足により経済は遅れており、国連から最低水準発展国家の一つに列せられている。
世界地図を広げてその上に指を這わせていくと、いくつかの「国の中にある国」があるのを見つける。フランスの中にあるモナコやイタリアの中にあるバチカンは有名だが、世界最大の「国の中にある国」が南アフリカ共和国の中に位置するレソト王国であることは、あまり知られていない。
レソトは国際的には知名度はさほど高くないが、パカリタ・モンシリ首相は十月四日の独立建国記念の式典で、「レソトは世界中で最も天国に近い国家である」と述べた。
四方を山に囲まれた同国は、平均海抜が千六百メートルで、「空の王国」と呼ばれている。国民の九割はキリスト教信者であるから、最も天国に近いことは最大の祝福と栄誉であるに違いない。天国に最も近いこの土地は、神の一番深い恵みを授かっているだろうか。
レソトは豊かな自然景観に恵まれている。山々に囲まれ、清らかな空気、頭をもたげれば澄みきった青空と白い雲。たまに黒い雲が一陣の雨を携えて訪れるが、その後大空は洗い清められてさらに澄みわたる。夜は子供たちが星空を仰ぎ、小さな指で星の数をかぞえる。星空はあたかも銀河のようだ。しかしここでは夢は見られるが、現実を見ることはできない。
国が目指すスローガンは「和平、降水、そして繁栄」である。食糧不足が深刻で頻繁に暴動が起こる。外国人商人は撤退してゆき、国民の年平均生産高は四百米ドルにすぎず、国連から「最低標準発展国家」に認定されている。
神々はレソトに豊かな生活環境を与えたが、人間の生存活動条件を与えることを忘れたようである。
車で国境を一周した。案内してくれた台湾人の企業家は一つまた一つと公共施設を指して、私たちにそれらが建設された由来を説明した。南アフリカ共和国からレソトに入国する際に通る検問所は、数カ国から成る高地水源計画署が出資して建てたもので、国立図書館、国会と国会議事堂は中国の援助によるもの。入国検問所から町に至る平らなアスファルトの道路はカナダが、設備が整った学校は日本が建てたなど、多くの国から関心が寄せられているのが分かる。
貧しい政府は他国の援助でやっとインフラ建設ができる。このような状況を見ても、国民の生活がどんなものかが想像できる。
レソトの国土は三万平方キロ余りで、台湾とほぼ同じぐらいの大きさだ。しかしその四分の三が高地で、耕地面積は二十五パーセントにすぎず、それが全て農業、畜産業に開発されても百九十万もの人口を養うことは無理で、食糧の半分以上を輸入に頼らなければならない。
工業と商業が停滞状態にあり、毎年約五万人のレソト人が南アフリカ共和国に鉱夫として出稼ぎに出ており、両国は切っても切れない密接な関係になっている。そのため南アフリカの通貨「ランド」はレソトの通貨「ロティ」と並んで、主要通貨の一つとなっている。
一九八〇年代末期から南アフリカの鉱業がだんだん衰退し、アジアの企業家がレソト国民の主な雇用主となった。
「二十数年前頃から台湾では伝統的な加工産業が衰退し、大勢の台湾企業家は人件費の安い海外に工場を移しました。紡績業の進出がとくに目立ち、企業家はアフリカに開拓を求め、この小さな山国を訪れたのです」
レソトにおける工業開発の尖兵となった台湾の企業家たちの道程は、決して容易ではなかった。手取り足取りゆっくりと従業員を教育し、訓練した。
陳美娟は当時のことを思い出して笑いながら言う。針に糸を通すことから始まり、作業員が生産ラインで一人で作業ができるまで、一人当たり平均約二カ月の特訓が必要だったと言う。
技術面のほかにレソト人の考え方も、変えなければならなかった。ある従業員が陳美娟にこう言ったことがある。「社長さんはお金があるのだから、直接私たちにくれたらよいのに。なぜ私たちに仕事をさせてからお金を渡すの?」陳美娟は驚いてしまった。
現地工業を開発した台湾企業
二〇〇〇年五月十八日に米国が「アフリカ成長機会法」(AGOA)を施行し、適用対象国三十五カ国は約六千五百品目の生産物が無税で輸出できるようになった。そのうち十二カ国ではさらに、繊維製品の米国への無税・無制限輸出といった優遇措置が認められ、レソトもそのうちの一国となった。これにより、外国資本のレソト進出が促され、レソトに進出し工場を設立した台湾企業はそれまでの七社から三十社あまりに増えた。
「台湾企業の工場設立は、企業自体の利益のみならず、増加するレソトの失業問題の解決に役立ちました。ピーク時には台湾企業は約五万五千人に雇用の機会を提供しました」。
台湾企業最大手の年興紡績の工場では、退勤時に四車線の広い道路が従業員で埋まる。年興紡績副支配人の林見安氏は、「レソトの経済収入の八割以上を台湾企業が占めています。毎月三百五十万米ドル以上の給料を支払っており、それによる経済效果は一時的でなく持続的なものです」と説明した。
一九九〇年代にレソトでは二度の大暴動が発生し、そのため外資が軒並み撤去した。そうした状況の中、台湾企業家は踏み止まり、従業員の素質を高め観念を改めさせ、皆が積極的に仕事をするようにした。
これにより、社会情勢は落ち着いたものの、試煉はまだまだ続く。
林見安氏に案内され年興紡績工場の倉庫を見学した。アフリカ最大規模の綿の倉庫で、一輌一輌と次々に良質の綿花が運び込まれてくる。林見安氏は、「四十数年間紡績業に従事してきましたが、今年の綿花ほど高値となったことはありません」と語る。綿の主要生産地であるパキスタンは水災、同じく中国新疆は冬の訪れが早すぎて雨量が足りず、世界的に収穫が減り、値段は五倍にふくれ上がったのだという。
気候変動と食糧分配不均等の影響を受けて、今年の初めから東アフリカは最も深刻な旱魃と食糧不足による飢饉に見舞われ、徐々に南部にまで拡がっていった。南アフリカ共和国は「アフリカのパン籠」と言われるが、その国の中にあるレソトは国連から「広範囲食糧欠乏国」に認定されている。
すべてを天に期待
先祖伝来の宿命
レソト国内には川が少なくないが、ほとんどが急流である上、水資源は高山地区に集中している。政府も国民も、水を平地の農地や水田に引き入れる資金がない。土木施設の不足と、少ない雨量のため、農民は自然に頼る生活をしている。そのため作物は旱魃に強い高梁やトウモロコシなどの栽培に限られ、しかも少量しか収穫できない。一滴の水も貴重で、たらいの水で体を洗い、野菜を洗った水などは家畜にやっている。
農民のマオンポーが私たちに現地の主食品を紹介してくれた。彼女が取り出したのは、一袋の粉であった。「これは春に植えつけたトウモロコシです。一年後の三月か四月には実りますが、私はすぐに採らないで、五月か六月まで待ってから収穫します。この時にはトウモロコシはだいぶ乾燥しており、その粒を剥ぎとって乾かしてから粉末にします」
マオンポーは馴れた手つきでトウモロコシの粉末を鍋に入れて水を注ぎ、どろどろになるまでよくまぜる。当地の人はこれを「パァーパァ」と呼び、これに青菜を細く刻んでねりまぜて食べる。これがレソトの人々の主食だという。
「とてもお米などいただけません。植付けもできなければ、それを食べるお金もありません。新鮮なトウモロコシもぜいたくなもので、食べられません」。マオンポーは大きくためいきをついて、「私たちはトウモロコシの粉末を食べて水を飲みます。そうすれば何倍かにふくらんでやっとお腹いっぱいになります」
代々農業に従事してきたマオンポーもそれを継いで農耕の運命に甘んじている。天気の移り変わりは日々気にかかる重大事だ。近年は気候が著しく変動しており、二年旱魃が続いた後、今度は二年氷や雹が降り、豪雨が続くという状態だった。
五十二歳のマオンポーは六十歳過ぎに見える。二〇〇七年の大旱魃により決定的な大打撃を受け、レソトの食糧不足は深刻を期している。
大旱魃
食糧不足に危険信号
マオンポーは二ヘクタールほどの農地を所有している。水不足に悩まされているものの、多種多様な作物を植付けしている。収穫量は多くはないが毎年五百五十キロほどあり、何とか自給できるほか、来年用の残った種をいくらか販売することもできる。「でも大旱魃が起こる数年前から、生産量は半分以下に減りました」と言うのである。
マオンポーは首都から車で一時間ほどのマツケン地区に住んでいる。国境一帯に流れるカリドン川に隣接しており、レソトの主要な食糧生産地だが、ここでさえも農作物収穫量減少の運命に晒されてきた。
二〇〇七年、マオンポーは例年通り八月に一回目の種まきをした。「春は雨季ですが、九月まではずっと雨が降りませんでした。灼熱の太陽に苗はまたたくまに枯れてしまいました」。マオンポーは急いで二回目の種まきをし、数週間後また種まきした。しかし夏の訪れまでずっと雨は降らず種子もなくなり、すべてが徒労に終わった。
食糧不足は物価にも直接反映し、農民だけが苦しいのみならず、労働者も大きな影響を受けた。陳美娟の衣服加工工場で働いているパスカリーナは「以前は十二・五キロ入りのトウモロコシ粉は五十ランドでしたが、食糧不足の時には八十ランドに値上り、それに加えて自分の畑も不作です。全く泣き面に蜂というところです」と話していた。
レソトは大家庭が多く、普通一つの家族に六人以上を抱えている。パスカリーナのような工場作業員は月収が約千ランドで、文字通り腹を満たすので精一杯である。
農民と労働者はたまらず悲鳴を上げており、その上近年ではエイズの流行で多くの孤児が出て、さらに困難な状況となっている。
十六歳のホータツォは両親を亡くした後、学校の合間にアルバイトをして一人で二人の弟と妹を養っている。しかし食料品の高騰に耐え切れず、やむなく学業をやめて勤めに出た。それでも持ちこたえられず、隣近所も兄弟を長期的に援助するのはとても無理だった。
「時には私も考えます。お金を儲けたら毒薬を一瓶買って、弟、妹と共に人の世を離れれば、楽になれるのではと……」。ホータツォはまだ子供だが、ノートには絶望が書き連ねてあった。
二〇〇七年、国連はレソトの飢饉に危険信号を発布し各国と慈善組織に対して食糧の寄付を呼びかけた。レソト政府は全国を二十八の区域に分けて世話をして貰うことにした。多くの台湾企業家は「社団」の名義で当地で善行を施し、年興紡績工場は幾度も食糧配付を行った。
陳美娟はもともと慈済ボランティアだった。この年陳美娟はグレーの慈済ボランティアのユニフォームに身を固めて事務所を出た。慈済ボランティアと共に国連からマツケン地区の世話を引き受け、同時に連続六カ月間、食糧を配付した。
天に雨を賭けて種まきを
国連によると一キロの塩、一キロの豆、〇・七五リットルの油と二十五キロのトウモロコシ粉が一人の一カ月の生命を支えることができ、またコストもさほどかからないという。陳美娟と現地ボランティアは、あらゆる方法を講じて四方八方から食糧を買い入れ、世話を引き受けたマツケン地区に住む貧困世帯約八百人に配付した。
当面餓えずにすんだ住民だが、将来の目処が立たず悶々と悩んでいた。
「喧嘩や盗みが多く、治安はとても悪い」とマオンポーは言う。これまでのように、和やかにお互い助けあうことはもうなくなった。村々から笑い声やお互い交わす挨拶の声も段々と聞こえなくなってきている。「他人を助ける余裕はなく、いつ援助が切れるかばかり心配しています。自分で生きていけない者に、どうして『人としての尊厳』などあるでしょうか」
住民の苦悩をボランティアはひしひしと感じた。「私たちも自問しています。食糧の配付は一時的な援助にすぎません。何とかして彼ら自身の力で立ち上がれるようにできないだろうか」と陳美娟は苦悩の色を浮べて語る。
毎月の配付でボランティアと住民は、初めは見知らぬ仲だったのが、しまいには友だちとなり、生命共同体さながらの強い絆で結ばれた。回を重ねて解決策を討論している中に意見が一致し、トウモロコシの種を配付することになった。 「二〇〇七年の大旱魃で種まき用の種までなくなりました。私たちは種を贈り、雨乞いを行ない、幸多かれと祝福しました」と陳美娟は語った。
慈済ボランティアは南アフリカ共和国の国境近くのレディブラン市から品質の良いトウモロコシの種子を仕入れ、農地の大小によって種子を分配した。三ヘクタール以下は十キロ入りを一袋、三ヘクタール以上には二袋を贈りました。総計七万ランド重さ八千キロの種子を春耕(レソトでは十一月)の終わる前に五百二十世帯の農民の手に渡した。
慈済ボランティアに参加している台湾企業家にとって七万ランドは大した金額とは言えないかも知れないが、彼らの心意気はビジネスと同じくらい真剣だった。陳美娟は笑いながら、最初は全く伸るか反るかの賭けだったと言う。「あの年の降水はやはり豊富ではありませんでした。天と大博打を打ったも同然でした。雨を賭けてね」と言う。
マオンポーはボランティアから種子を貰った時のことを思い出す。「最初の一月、雨は降りませんでした。二月目には雨が降り、あの年の降水量は程良いものでした。私たちの心からの祈りがとうとう神様に届きました」
「慈済が配付した種子は見たところ今までのと同じでしたが、発芽した後すぐ良し悪しが分かりました」。今まで坐って話していたマオンポーは起ち上り、「あのトウモロコシの根は太くて長く、トウモロコシはみんなよく実っていました。一株で三つも四つも実がつきます。以前の痩せっぽちのが一つか二つしかつかないのと比べたら、雲泥の差でした」と手振り身振りを交えて話す。
二〇一〇年の収穫の月、マツケンでは毎日農民が讃美歌を口ずさんでトウモロコシを収穫する姿が見られた。
貧農が全てを分ち合う中に
豊かになった
二〇一〇年五、六月の収穫時季に、慈済ボランティアはよく村人からの電話で「皆さんどうしてもっと早く来ないのですか」と聞かれた。
マツケン集落には広場が一つある。村の冠婚葬祭の行事や会議などを行う場所である。八月にボランティアが来た時、村人たちは既に区毎に隊列を組んで、それぞれ一袋のトウモロコシ粉をさげていました。これは彼らが今年収穫した一部で、愛のお返しである。
「彼ら村人はかつて、今と同じ場所に並んでトウモロコシの種の配付を受けました。その時は満面期待に溢れていました。そして今、彼らは我々に種子配付へのお返しをしてくれたのです。その様子は全く満足そのものでした」
あの日、回収された六千キロ近いトウモロコシの種子を満載したトラックがゆっくりとマツケンを離れる時、まだ多くの農民が四方八方から豊収のトウモロコシを担いで山手から大声で待ってくれと叫んでいた。陳美娟は「あの日慈済ボランティアは村から満載のトウモロコシを運び出しただけでなく、さらにもっと重い感動をも運び出したのです」と語る。
豊収の謳歌がひとまず落ちついた後、愛がもう一つの山村に伝わった。マツケンから車で一時間ほどの山地集落タバナモリーナには三つの小さな村がある。四月に風災に襲われてから五カ月が経つが、まだ三十世帯あまりが援助を必要としている。
この度はレソト在住の台湾企業家ボランティアだけでなく遠隔の南アフリカ共和国のダーバン、レディスミスからの慈済人も支援に馳けつけ、マツケン地区の新しく起ち上がったレソトの農民たちをさらに勇気づけた。「私たちはマツケン農民がくれた真心こもった種子を粉にして、現地の農民たちと一緒に配付します」と。
マツケンの農民が現地のテレビ局のインタビューを受けた時、「過去我々の条件はすべて劣っていました。人を助けたりお手伝いしたりする機会など私たちには永遠にないことのようでした。ですが、今私たちはそれをなすことができました……」と。この農民たちは自分の畑に植えられたトウモロコシの粉を自分で配付した。一方ではタバナモリーナの被災村民に「たとえこの度皆さんが罹災しても必ず起ち上がれます。そしてみなさんが起ち直った時、この愛を必要とする人々に伝えることを忘れてはいけません」と激励した。
二〇〇七年の大旱魃は人々に自然への畏敬の念を抱かせ、天地の力にはとても拮抗できるものではないことを悟らせた。また、レソト人が台湾企業家に対して抱いていた「融通がきかない」との印象を一掃しました。
十数年前、台湾企業二社が現地の銀行から巨額の借款を受けた。投資という名目だったが、まもなく会社をたたんで当地を離れた。その上、既製衣服加工場がコストを軽減するため労働力を拡大、各生産ラインの空間を極力節約する設計をしたので、身動きが非常に困難な作業場となった。退勤になると飲酒や賭博などに高じる台湾投資者の姿を見て、レソトの人々は台湾企業家は搾取するばかりだと考えていた。
既製衣服工場で働くマメロモカイロは「以前我々の仲間で黄色人種に好感を持つ人はほとんどいませんでした。だから食糧不足の時あんなに多くの台湾企業家が起ち上がって私たちを援助してくれたのは本当に驚きました」と言う。
食糧不足の時マメロはちょうど陳美娟経営の工場に入ったばかりだった。これまでに見てきた台湾企業家とは異なるのを見て、「我々の親方は仕事の時はとても厳しいですが、貧しい従業員の子には学費を援助してあげています」と。
その後マメロは陳美娟のお供をして配付に参加、貧困世帯を訪問した。その時さらに多くの台湾企業家が陳美娟同様、従業員の世話ばかりでなく、現地の住民の面倒を見ているのを知った。「私はうちの親方の行動を誇りとしていましたが、他の台湾企業家も従業員を伴って善行に励んでいることを知りました。台湾から見えた方々は変化しつつあると感じました」
台湾からレソトに渡ってきた企業家は本当にこの土地が好きになり、情を感じたのである。台湾で斜陽に陥った産業をこの地に移したが、レソトはその期待に見事応えてくれた。現在台湾企業家はレソト国民に恩を感じ彼らを引き上げようとしている。
この最も天国に近いといわれる国の人々はこれまでの民族性に別れを告げ、強く自立心旺盛になった。いつの日か、彼らが胸を張って諸々の神に向き合えるように祈る。