遠く隔てられていても思いは一つ
再び東日本大震災の被災地を訪れました
被災者が全べての悲しみと痛みを忘れ去り
みなの愛で温かい気持ちに包まれますように……
未曾有の大津波がこの地に住む全ての人の幸福と希望を打ち砕いてから十八カ月、私は再び日本の東北地方を訪れました。宮城県の田畑は一面の黄金色を呈し、収穫の季節を迎えていました。空の彼方に黒い雲が移動し、雨が降ってきました。翌々日、私は北上川を目指して出かけました。
北上川は岩手県と宮城県をまたがって流れる長さ二百四十キロの日本東北地区で最長、日本全国で四番目に長い大河川です。
北上川はあたかも龍の如く内陸から海に注ぎ込み、海に近い河口の幅は中流域の二倍に達します。昨年三月十一日、この龍は河口で軽く寝返りを打つと突然、口を大きく開きました。津波はこの大きく開いた口から湧き起こり、沿岸の村落に襲いかかり、河口から四キロの大川小学校を呑みこみました。龍は大川小学校に通う九歳になる張君さんの娘を連れ去り、張君さんの心を粉々に打ち砕きました。
津波の高さは校舎二階の天井に及び、大川小学校百八名の児童のうち五十六名が死亡、十八名が行方不明、十三名の教職員のうち十名が死亡あるいは行方不明になりました。
中国の大連から嫁いで来た張君さんは、昨年慈済の「住宅被害見舞金」を受け取った時、慈済ボランティアの胸に泣きくずれ、ボランティアがその手を取って慰めました。張君さんは今では日本東北地方の慈済種子の一粒となりました。そして同じ境遇の母親と互いの悲しみを語り合っては、いつ果てるともしれない涙に暮れ、今にも枯れてしまいそうな心を慰めています。
張君さんは私たちと一緒に再び大川小学校を訪れました。広々とした寂しい校庭、壁が一部だけ残る教室の姿が目に入ってきた時、彼女の心は静かで波のない河底に落ち込みました。ビデオテープレコーダーとカメラを携えた私たちは、彼女の後を距離をおいてついて行きました。張君さんは静かに泣いていました。私たちは、彼女が涙を流している姿を撮る気にはなれず、如何ともしがたい気持ちで胸がいっぱいでした。
三一一東日本大震災後、この如何ともしがたい気持ちが日本の慈済ボランティアたちの心にからみつきました。被災から生き残った人々は堅く手に手をとりあって心を合わせ、やっとこの十八カ月を耐え忍ぶことができたのです。私たちはこの日、張君さんのインタビューを取りやめました。
カラスの鳴き声が
遠くからだんだん近づき
頭上をぐるぐる
回った後、
又次第に遠くへと……
記憶は
忘れられるべきでしょうか
追波川、北上、塩釜各地に建てられた棟続きの仮設住宅は、静まり返っていました。あたかも時間までがそこで立ち止まったような感じです。玄関先の盆栽に生けている花までが静かな大空を見上げたままの恰好でした。背が丸くなったおばあさんたちがゆっくりと歩いていました。私は「傷の痛みがまだ癒えていないのだ。それを胸の奥深くに隠しているだけなのだろう」と考えました。そんな感傷に浸っていた時、慈済日本支部のボランティアが仮設住宅の砂利道を歩く足音が聞こえてきて、私もあの女性ボランティアたちと同じでなくてはならないと勇気を奮い起こしました。
この仮設住宅とここに住むお年寄りたちのことを思う時、私の脳裏にはあの軽快なリズムの阿波踊りが浮かびあがってきます。慈済ボランティアの李月鳳さんが、皆さんの前で阿波踊りを踊った時のことです。太った彼女がすばしこく軽快に体をひねりくねらせて、手足で調子をとって、この日本民族独特の踊りを披露すると、物静かな日本人も大笑いしました。おばあさんの一人が立ち上がって踊り出しました。表情、物腰、動作のすべてが気品があって美しいものでした。私は「おばあさんは阿波踊りの勝れた踊り手だったのだろう。きっと長い間休んでいたのだ」と思いました。
振り返って見ると、慈済日本支部のボランティアが一所にかたまっていました。彼らも微笑を浮かべていましたが、その笑顔の中にはかすかに憂いが見られました。私はボランティアに、「皆元気よくやって下さい」と大声で話しかけたい気分に駆られました。
「阿波踊り」はすでに四百年の歴史があり、昔、阿波の国と呼ばれた日本の四国地方の徳島県で発祥しました。毎年の盂蘭盆には盛大に挙行されてきました。盂蘭盆は日本では正月に次ぐ大事な行事です。各地の人々は祖先の祭祀を行い、亡くなった方の冥福を祈り、夜は家族一同が集まって笛や太鼓に合わせて踊ります。それで先祖の方々が地獄の苦から脱け出せるようにと祈るのです。
日本における盂蘭盆は、日本の飛鳥時代(六世紀末から七世紀末)に中国を経由して伝わってきたといわれています。盂蘭盆はサンスクリットの音訳で、盂蘭は逆さまの意味です。地獄で逆さまの苦を受けていることを表し、盆は即ち救いの器、地獄で苦を受けている霊魂を救出する法器の意味です。「これは慈済がいう『七月は吉祥の月』ということではないだろうか」と、私は思いを遥か台湾の慈済に致し、因縁とはかくも緊密に結びつくものなのだとつくづく感じました。
リンゴのようにほっぺたを
赤くした少女が
車窓の前に立って
手をふりながら言った
「みんなもう帰ってしまうの?
また来てくれる?」
宮城県の中部に位置する塩釜市の仮設住宅の前で、何人かのお年寄りがバスを待っていました。ボランティアの劉桂梅さんが傘を杖がわりにしているおばあさんの頬をなでながら、「おばあさんの肌はすべすべで、なんと若々しいんでしょう」と称讃しました。おばあさんがどう答えたか聞き取れませんでしたが、劉桂梅は笑いこけました。それを見て、おばあさんも訳がわからず笑い出しました。私が劉桂梅さんに、「おばあさんは何て言ったの?」と聞くと、「おばあさんはね、『私はただこの顔だけは張り切っているの。あとは皆だぶだぶにやせてしまっているの』と言ったのよ」と答え、また笑い続けた。
この時、あまりにも静かで寂しいこの仮設住宅で、おばあさんは弥勒菩薩のように見えました。その笑い声は天から私たちに届けられた貴重な贈物でした。台湾に帰った後も、いつもあのおばあさんの笑顔を思い出します。
瀧口清さんは台所とリビングを兼ねた狭い部屋で、たくさんの食べ物を準備してボランティアたちをもてなそうと忙しく立ちまわっていました。日頃テレビでしか見たことのなかった日本のお料理が、私たちの目の前に現れました。甘辛く煮たカボチャ、丸い粒の大きな栗、さっぱりした歯触りの漬物など、すべてが私には珍しく、そして温かい真心を感じました。瀧口さんは出した物を全部私たちに平らげてほしいと言って、他のボランティアにも栗をお土産に持たせてくれました。私はまるでお年玉をいただいた子供のように嬉しくて仕方ありませんでした。
私が口いっぱいカボチャをつめ込んでいる時、「今、ここで私たちに手伝ってもらいたいことがありましたら、どうぞ遠慮なくおっしゃって下さい」と、ボランティアの一人が瀧口さんにきいているのを耳にしました。通訳を通して、私たちは、津波の後すべてを失くした瀧口清さんにただ一つの小さな願いがあることを知りました。彼女は首飾りを一連とイヤリングを一つほしいこと、それで自分を飾りたい、自分を大事にしたいと言うのでした。
ボランティアはノートに記しました。「塩釜瀧口清、中国結びの玉の首飾り」と。大自然の脅威に生き残ったこれらの人々の記憶を、慈済日本支部のボランティアは改めて記録しました。
多賀城市文化センターの壇上で、ボランティアたちが被災者の皆さんに慈済の歌「夢が叶う」を披露していました。張君さんは舞台中央で、手話で表す役柄でした。スポットライトに温かく照らし出された彼女は、和やかな微笑をたたえていました。「彼女の顔は光り輝いている」。私はじっと見とれていました。ビデオカメラとカメラが、彼女の動作をとらえていました。
撮影が終わってから、私は楽屋へ行き、張君さんにインタビューする機会を待つことにしました。しかし私は彼女のインタビューをやはり思い止めました。「月は私の思いを知っている。灯りを伝えに他郷へ、荒波に阻まれることなく、心は清らかに香しく」と口ずさみました。私は何をする気も、どこに行こうという気もなく、ただ多くのボランティアと今宵の感動を守りたい思いでいっぱいでした。
観覧席にいる八十三歳の伊藤泰子さんは、舞台から流れる台詞を聞きながらうなずいていました。津波で一家六名が命を失った伊藤さんは、昨年慈済人がお見舞金を配布するためこの地を訪れた時に友達となりました。伊藤さんは涙を流して語りました。「災難の後、私の感謝の気持は言葉では表せません。こんなに多くの国の人たちから贈られた愛を、私たちは大事に胸にしまい、今、心は温もりに満ちています。ありがとうございます。私は本当に生きていてよかったと感じています」
文・張晶玫
訳・王得和