アフリカ南部の国ジンバブエは、二十年来、数々の「記録」を打ち立ててきた。
一時、通貨のインフレ率は世界一になり、食糧供給をしてきた国は援助される国に転落した。
識字率がアフリカでトップでありながら、失業率は他のどの国よりも高い
台湾の企業家、朱金財はジンバブエが一番良かった時に財を成した。不景気になってから四回も強盗に遭い、無常を悟ったが、逃げ出さなかった。
彼は逆に人と異なる人生の道を歩みだした。
アフリカといえば、多くの人は飢餓と貧困、旱魃と日照りを思い浮かべるだろう。そして、アフリカ南部の国ジンバブエといえば、インフレで世界一大きな額面の紙幣が流通し、八十九歳という高齢の大統領が選出されたというイメージがあるに違いない。今回で第七期目になる大統領は、一九八〇年にイギリスから独立して以来、国家元首を務めてきた。
ジンバブエには政権の座に最も長く、かつ最も高齢な民主主義的に選出された大統領がいるだけでなく、この二十年の間に数々の「記録」を打ち立ててきた。
例えば、アフリカ南部の穀物庫といわれた国が、食糧援助を受ける国に変わったこと。そして、十年足らずの間にインフレ率が二百三十万パーセントに達したこと。一方、国民の識字率が九十一・二パーセントとアフリカ一であるのに、失業率は八十パーセントで、これもアフリカ一である。
一九九五年、朱金財は台湾からこの地に来て事業を始めた。彼は様々な不可思議なことを聞いてきただけでなく、自らこの伝説的な国の危機を一度ならず経験し、流動的な社会で会社の舵取りをした。彼には「失敗した国」というレッテルを貼られたこのジンバブエを離れるチャンスはあった。しかし、歯を喰いしばって残ることを選び、彼をぼろぼろにしたこの国で、希望の炎を燃え上がらせた。
王冠の宝石が地に落ちた
「一九九五年と今のジンバブエは二つの異なった国のように思えます」と朱金財が言う。
ジンバブエの土地は肥沃で鉱産物も多い上に良質なので、昔からアフリカの富を奪おうとしてきた西側植民地主義者にとって涎が出そうな国だった。イギリスから独立する前、大量の農産物や鉱産物は「イギリスの王冠にある宝石」だと称えられた。そして、独立してからも政治と経済は安定していた。政府はほとんど植民地時代の政策を踏襲し、国民は豊かで平和な暮らしができた。
ジンバブエは農業立国で、六十七パーセントの人が農業に従事し、次に多いのが鉱業であり、商業に従事する人は多くなかった。そのため自国で生産する製品は少なく、受給バランスが取れていなかったため、「一ジンバブエドル(Zドル)のものを三Zドルで売れるし、言い値で売れる」と商人は考えた。
朱金財は商機を見据えてこの地にニット工場を作り、やがて首都ハラレの市街地に十二軒の店を開いて衣料と生活雑貨を販売した。後に中国からの廉価商品に押され、工場を閉めざるを得なくなったが、彼はその十二軒の店だけで大儲けを続けていた。
やがて、彼の幸運も時間切れとなった。一九九七年末から一九九八年にかけて、政府内部の問題と強硬な労働組合の出現で、国民の怒りが爆発し、至る所で暴動が起きて多くの罪のない商店が略奪された。「どういうわけか、暴動が起きるのはいつも私の店の近くなんです」と彼は苦笑いして言った。
「毎回、暴動の噂を聞くと、私は妻と子供、その友人たち皆で徹夜で店の商品を家にある倉庫に運びました。三回、略奪された後、私はいつもピストルを身につけ、いつでも撃てるようにしておきました」
一九九八年八月十六日、最後に略奪に遭ったのは、彼が工場を離れて二十分の時だった。「何もかも持って行かれました。ハンガーや机、椅子まで運べるものは全てです。残っていたのはあるはずのものではなく、片足の草履とか催涙弾の薬莢でした。聞くところによると暴動中に子供が踏みつけられて怪我したそうです」
たった九カ月の間に彼は四回も略奪に遭い、毎回あらゆる物を持って行かれた。損失総額は日本円にして六千万円を超えた。半生努力して蓄積した財は暴徒のポケットに入り、従業員の給料も払えなくなった。
遠く離れた台湾の義理の父は国際ニュースを見て、一家の安全を考えて家族を連れて台湾に戻るよう何度も電話で説得した。果ては「君の損失は全部、私が面倒見るよ。そこの財産は処理する必要もなく、それに相当する金額を全部あげるから、すぐに帰ってきなさい」とまで言った。朱金財がそれを承諾し、飛行機の切符を買いさえすれば、彼は義父から一億五千万円以上の資金援助が得られたのである。
「当時、私は手負いのライオンのようでした」。朱金財に残っていたのはどうしようもない傲慢な自尊心だけだった。彼は逆に義父に向かって罵り、深く考えもしないでその提案を断った。彼はそのようにしてジンバブエに居残ったが、全てが安定してから台湾に帰り、義父に懺悔した。
百兆あっても
一斤のパンも買えない
暴動を悪夢に例えるなら、インフレはジンバブエの災難である。
二〇〇〇年からジンバブエ政府は強制的に土地の改革を行った。彼らは植民地時代に白人が非合法に黒人から土地を奪ったと判断した。そして、政府と白人団体の話し合いが決裂した後、白人が所有する大部分の土地を没収した。
その行為は国際社会で厳しく非難され、経済制裁を受けるようになった。大勢の白人農民は国外に逃れたが、逃れる時に灌漑設備を破壊したり農耕機械を持ち出すか破壊した。その後を引き継いだ人は大方、農業技術を持ち合わせておらず、灌漑設備を整備する資金も十分になかった。また、追い討ちをかけるように異常気候も加わり、農地は荒れ始めた。農業立国だったジンバブエの経済は次第に崩壊していった。
国際社会からの制裁によって輸出入は制限され、長期的に対外債務が増える中、国際通貨基金(IMF)は一時ジンバブエに対する援助を停止した。ジンバブエ政府は大量の紙幣を印刷して財政赤字を補填しようとした。それによって世界で最も大きな額面、百兆Zドルと言う紙幣が出現した。一九九三年以前の最大額面の紙幣は二十ドルに過ぎなかったこの国を襲ったインフレ率は、想像を絶するものだった。
ジンバブエドルは急速に価値を失い、二〇〇八年七月、インフレ率は二百三十一万パーセントという驚異的な数字に達した。百兆Zドルという紙幣を発行した日でも三百米ドルの価値しかなかったが、数日経つと一斤のパンやコーヒー一杯も買えない紙くずとなった。
朱金財の妻・李照琴は雑貨店を経営していたが、インフレが最もひどかった数年間は毎日、手持ちのZドルをどうやって両替したらいいのかに頭を悩ませていた。「もし、Zドルを米ドルや他の外貨に両替できなければ、その日のうちに豪華な食事をしてお金を使うのです。でないと、翌日にはそのお金は紙くず同様になってしまうからです。実際、その頃、毎日のように外食していました」
その結果、人々は物々交換する原始的な状態に回帰したのだ。しかし、交換するものを持たない人は飢えるしかなかった。
略奪されるぐらいなら
分かち合った方がいい
工場が略奪に遭った後、一つの考えが朱金財の脳裏から離れなかった。「ずっと考えていたのです。どうして略奪は私が工場を出て二十分してから起きたのかと。もし二十分早かったら私は躊躇することなく拳銃を使っていたでしょう。その二十分の差は自分に何かを暗示していたのではないか?と」
警察が事情聴取したり現場の調査をしている間、彼は何もすることがなかった。部屋の片隅に台湾から持ってきた仏教の経典とカセットテープがあるのに気がついた。長年の埃を手で払い、持て余した時間で本をめくってみた。
経典の中の一言が、四回も略奪されて思考が止まってしまった朱金財の脳裏にしっかりと根を下ろした。
布施によって業は転化する。
「今回のように業が現れた時は、善行を多くすればいい」。朱金財はただ布施するだけでなく、「これら金銭が私のものでないことが分っていて、強盗にくれてやるぐらいなら、それを必要としている人々に布施してあげるべきではないか?」とも思った。インフレで人々が安心して暮らせない状況下で、彼は胸を張って違った人生を歩むことを決意した。
朱金財は週に一度、地域社会で食糧支援を行うことから始め、毎週異なった地区に行った。「毎回、一斤のパンを七百本買い、三千人余りに配付することができました」。
食糧不足は田舎だけの問題ではなく、食糧の生産が行われていないため、外から食糧を補給しなければならない首都も同じような状況だった。政府は悪徳商人が暴利を貪るのを防ぐために、食糧の持ち込み制限を行った。一人につき二十キロのトウモロコシ粉しか首都に持ち込めなかった。
朱金財は長年の商いで培った手腕と人脈を使い、他の地方の農政関係省庁から十キロ入りのトウモロコシ粉を数百袋買いつけた。彼は借りて来たトラックで首都を出たが、問題はハラレに戻る時、三つの検問所を通らなければならないことだった。「私は大統領と一緒に撮った写真を携帯して、粉を警官一人につき一袋配ったため、無事に通過することができたのです」
彼は週末毎に家族連れで三百キロ離れた所へドライブに出かけた。その時、車いっぱいに食パンを乗せ、ドライブの帰りに通りがかった村でパンを配付した。
伝染病を根源から断つ
インフレはジンバブエを傷つけたが、朱金財はより遠くへ足を伸ばし、善行の範囲を広げるようになった。やがて彼は「どうすればもっと多くの人を援助することができるか?」と考え始めた。
そこですぐに思いついたのが「子供」である。「子供が必要とするものは多くないが、学校へ行けば大勢の子供がいるのだ」と考えた。大部分の子供は貧しくて鉛筆もろくに買えず、とても短くなっても使っていたので、彼は大量の文房具を買って配付した。
「子供は大人と違って、配付が終わると皆、仲良くしようと近寄ってきて、私に話しかけるのです」。自分の胸の高さしかない子供たちを見て、どうして皆、頭のてっぺんが白いのだろう、と不思議に思った。
「それは頭皮の感染症である白癬に違いないと思いました」。ジンバブエでは長期に亙って水不足で、多くの人は簡単に体を拭くことしかできなかった。また、衛生環境はどこへ行っても悪く、白癬の伝染性は強いので、その根源を断つ機会がないばかりか、ほとんどの子供に伝染していたのだ。
「根本的に解決するには、頭を丸刈りにして、清潔に保つ以外にないのです」。朱金財は学校を後にした後、行きつけの散髪屋へ行き、自分の考えを理髪師に伝えた。「思いもよらず、皆、私の考えに賛同し、散髪奉仕活動に参加してくれることになったのです」。彼は大喜びした。だが、一つの学校に対して一軒の散髪屋だけでは理髪師が足りないので、商店街沿いに歩き、一軒ずつ散髪屋を訪ねた結果、三軒の散髪屋が同意してくれた。
しかし、散髪道具は理髪師にとっては命の次に大事な商売道具である。散髪の対象は白癬にかかった子供たちだ。理髪師たちが労力を奉仕してくれる以上、道具は全部、朱金財が用意することにした。
「私は理髪師の紹介で、プロ用の電気バリカンを買いましたが、一つ百米ドルもしました。また、その整備用にミシン用の油を買うと共に常時使用できるように発電機まで買いました。そして、それよりも大事なのは紫色の消毒水で、それで白癬の細菌を消毒するのが最も重要なことでした」。散髪用の前かけは、朱金財が理髪師から一枚借りてきて、その通りに形をかたどり、裁断して作った。
わずか一週間の後に、彼は学校に行って子供たちの散髪を行った。
発電機の電源が入ると電気バリカンは大きな音を出して高速で動き出した。刃が子供たちの固い巻き毛に当たると白い灰が立ち上った。「彼らの髪の毛には白癬と砂埃、そして、小石のかけらや木の枝まで入っていました。数人散髪しただけでバリカンの刃は切れが悪くなったので、急いで予備の刃と取り替えました」
髪をきれいに刈ってから紫色の薬を頭につけた。「一時間半もすると奇跡が現れました。子供の頭は油を塗ったようにテカテカし出し、白癬は消えてなくなっていました」
凄腕の理髪師たちが
三万人の頭を散髪
散髪奉仕による達成感で、朱金財は意欲的に各地の学校を回り、一校一校、校長先生から同意を得た。毎週違った学校に行き、一回に千人以上の学生の頭を散髪し、消毒した。しかし、あまりに多くの学校から要請されていたので、一巡りして同じ学校に行くには三カ月もかかった。
散髪がいつも順調にいくわけでもない。とくに頭に傷があって化膿している子はバリカンの刃が当たると血が出て泣き出すので、ボランティアはあやすしかない。
散髪奉仕を数回すると、参加する理髪師の数が少なくなった。「やはり収入がないボランティアですから。そこで、私は自分で習うことにしました。保護者や地域の人の中には感動のあまり、参加を申し込んでくる人もいました」
また、衛生面で手袋やマスクを使ったらどうかという提案がボランティアから上がった。朱金財は大いに賛成したが、ハラレの薬局を全部当たってもマスクは六つしか買えなかった。「その六つのマスクを持って行きましたが、ボランティアは三十人おり、誰にあげたらいいか分からないので、結局は出さずじまいでした」
その結果、問題が起きた。
当日、彼は白癬がひどかった子供の世話をしていて、石や木の枝を取りきらずに剃刀を当ててしまったのだ。一瞬灰が舞い上がって朱金財の顔にかかった。「普通よりひどかったのは事実ですが、気にかけていませんでした」
夜、家に帰ってから、彼は喉に砂をのみ込んだような違和感を覚えてかゆくなり出し、その後三日間、声が出なくなった。
「医者に行って初めて白癬に感染したことが分かり、飲み薬と吸入を続けなければなりませんでした」。朱金財は気が高ぶったのか言葉が続かず、涙を流した。やがて、気を落ち着いてから、「しかし、私の身に起きたのは幸いでした。もし、黒人のボランティアだったら医者に行くお金はなかったでしょう。それがどういう結果をもたらしたか、想像もつきません」と話を続けた。
二〇〇八年に始めた散髪奉仕は今も続いており、これまでに延べ三万人の頭を散髪し、取り替えたバリカンの刃は二百枚を超えた。子供たちが一人ひとりと白癬が治るのを見てきたが、今は白癬があっても数年前のようにひどくはなく、彼は嬉しかった。
善行は取引ではない
ジンバブエで善行を行うのは容易なことではない。当国では集会の制限があり、十人以上の集会は許されない。法律を順守するために、配付や散髪活動を行う前に必ず役所に許可を申請しなければならない。一部署ずつ許可をもらい、全部で十一部署の手続きが必要になる。「もう、かなり慣れてきましたが、それでも法律に基づいて申請しなければならないので、毎回多くの時間を費やします」
多くの役所ではいつもエレベーターが故障している。ある日、彼は衛生部門で書類を申請しようと思ったが、サインをもらわねばならない主任の事務所が十八階にあった。五十八歳になる彼はゆっくりと階段を上るしかなかった。
慈善活動で一番遠くまで足を延ばしたのは四百五十キロ離れた所である。彼は歳と共に体力の衰えを感じている。一九九八年以来、自腹を切って慈善活動をしてきたが、その金額は数十万米ドルになる。
「布施は業を転化する」。この言葉が朱金財の人生を以前とは違ったものにした。善行を始めた当初、彼には目的があった。「私は菩薩と取引をしていました。菩薩のために善行する代わりに、一家の安全を保障して欲しい、と」「菩薩は本当に私に安全をくれたのです。今の生活は非常に平穏で順調です」と彼は笑って言った。
「ある時テレビを見ていて、善行を菩薩との取引に使ってはいけないと気づきました」。二〇〇六年、大愛テレビを見始めた頃のことを思い返した。「私は慈済ボランティアが各国で行っていた物資の配付や災害支援、地域社会での慈善活動等を見て、自分がしていることと同じではないか、と思いました」
「それだったら、私も慈済ボランティアではないか?」とその時、彼は心の中で自分も慈済ボランティアであることを誇りに思った。そして、「自分はもっと慈済の精神に近づかなくてはいけない、と思いました。それは見返りを求めない奉仕であり、無私の精神を持つことなのです」。その後、彼は地域で食糧の援助をするにも学生への散髪奉仕も、また、国内でのコレラの発生と水不足に対して、定期的に異なった地域に清潔な水を供給する時も、彼個人の名義ではなく、慈済の名義で行うようになった。そのようにして黙々と善行をしてきたが、やがて隣国南アフリカの慈済ボランティアと連携するようになった。
二〇一一年暮れ、彼は台湾で委員の認証を受けた。「二〇〇六年、大愛テレビを見ていた時に私はもう認証を受けていた気がしていました。今日はそれを受け取りにきただけです」と彼は壇上で感想を述べた。
「慈済の支援があれば、ジンバブエではより多くの人が援助を受けられます」「今年、慈済から百二十トンの米が贈られてきました。それでどれだけの人のお腹を満たすことができたことか!」と彼は温かい微笑みを浮かべて言った。
正真正銘の慈済ボランティアになった朱金財にはより重い任務と遠い道程が待っている。「重いプレッシャーを感じますか?」と聞くと、彼は笑って「心が安らぐ重さです」と答えた。
文•心怡/訳•済運/撮影•林炎煌