二台のワゴン車が南関町から出発する時、先に新幹線で帰るボランティアたちを駅まで送った。彼女達は関西から来た日本人に嫁いだ台湾人お嫁さんだった。家族に休暇をもらって被災地に駆けつけたのだ。
繊細な日本文化と亞熱帶気候の台湾式の情熱との中間には著しい文化の相違があり、彼女達が被災地でのボランティア活動を通じて、その距離を縮めたようだ。
中村瓊珠は、最初心配し反対だった夫から「日本人のためにボランティアをしてくれたので、日本人の僕は頭が上がらない」と励ましの言葉を言ってくれた。その後、夫の中村省吾も慈済ボランティアとなり、今回も同行しており、運転手と総務の役割を担当しました。
炊き出し担当の中山慧珊は、レストランの経営経験から、毎日違うメニューを考え、温かいスープ等を通して、被災者に喜びを送ることだけが唯一心掛けなのだ。彼女はある被災者から「どこから来たの」と聞かれた時のことを話した。慧珊は「私たちは東京や、神戸、大阪からきた日本人と結婚した台湾お嫁さんなのよ!」と言うと、なんとその人は、「日本人に嫁いでくれて有難う!」と言ったのだ。
熊本地方は連日の悪天候にも関わらず、夜六時までずっと炊き出しをした。被災者のその一言で全ての疲れが吹き飛んだ。
普段仕事に追われている曹素蘭は、被災地で流暢な日本語でお茶を出し、慰め、被災者の話に耳を傾けるなど、大活躍をした。また、被災地の子供ボランティアと協力して年配者たちとの交流にも一役買った。
東惠莉は今回の団体生活の中で、包容することを学んだ。マッサージに心得がある彼女は積極的に被災者をマッサージして疲れを取った。そして年配者にマッサージを教えた。孫素秋はボランティアたちの姿をカメラに納めた。それと同時に、茫然自失の被災者を目にして心を痛めた。
色白の林美青は今回が初の被災地でのボランティアだった、「今までが幸せで、ベッドがないと眠れなかった。やっと人間の寝る場所は三尺ほどの大きさで十分というのが理解できた。被災地の年配者が避難所で待っている姿を見て、心で寄り添うことしかできず、両手で年配者の手をしっかり握りしめようとした」と話した。
海外から日本人に嫁いだ妻たちは、どうやって日本の家庭に溶け込むのか、どうやってこの土地に根差した生活をするのか、そしてどうすれば日本人の嫁にふさわしくなれるか、彼女達は人の役に立ちたいと思っているに違いない。被災地に駆け付け、被災者を慰め、手の温もりで心の温かさを伝えたのだ。
「日本人に嫁いでくれてありがとう」という被災者のその一言に彼女達は涙が熱くなった。何日も風雨の中で炉の火をともし続けたことは、まるでこの答えを待っていたかのようで、それは、人生の答えのようでもあった。
文/陳靜慧 訳/小野雅子