山口勝子さんの家は最も被害が深刻だった箭田地区の坪田部落にあった。山口さんによると、子供たちは山口さんの体を心配し、山口さんが避難所でゆっくり休んでいることを願っていたといいます。でも彼女は身分証明書とパートナーである「老眼鏡」を探すため帰宅したいと願っていました。しかし道路規制がかかる被災地で車を持たない彼女に帰宅する術はありません。そこでボランティア達は山口さんの願いを叶えてあげようと皆で相談し、車で家まで送ってあげることとなりました。さらに、山口さんの被災状況を見て何か力になれることはないかと考えたのです。
二万小学校から家までは小田川を渡り、普段であれば車で十五分程の距離だそうですが、今回の豪雨による被害で家に辿り着くまでかなり遠く感じました。息子の健太さんが言うには「七月六日の豪雨の影響で高粱川の水量が増えたため、近くのダムで放流が行われた。大量の放水が高粱川からの逆流を引き起こし、大量の水が小田川に流れ込んできた。短時間に小田川の水位が急激に増加したため堤防が相次いで決壊し、その水の勢いが数台の発電機のガソリンパイプを破壊し、下水道の汚物も流れて出た。これが被害の拡大した一因となった。」との事です。

七月十三日朝、二万小学校に着いたとき、遠くから山口さんが両手を振るのが見えた。ボランティアが走りよると、用意してきた二着の服を差し出して「待っていましたよ。急いで着替えてから家にお連れします。早く行かないと渋滞になるから。」と言います。「なぜ着替えを?」と気になるボランティアのその問いに、「皆さんの洋服を汚したくないから。それに、わざわざ遠いところから手伝いに来てくれたのに近所の人に、撮影に来た野次馬と誤解されたくないから」と答えが返ってきた。彼女のその優しい心遣いにボランティア達は感激で一瞬、目が潤んだのです。
山口さんに案内されて被害の深刻な地域に足を踏み入れると、気分がだんだんと重くなってきた。そこには住民達が努力して築いてきた物が浸水し泥にまみれ、その爪痕が無残にさらけ出されているのを見るに忍びなかった。山口さんの家は堤防のすぐ傍にあった。そこは、山口さんが四十数年前に嫁いで来たときに建てられた土壁の伝統的な和風住宅だった。この地区では竹を織り込み、藁を練り入れた土を塗り込んだ土壁の家屋が至る所に見られたが、二階にまでおよぶ浸水にほとんどの家屋の壁には竹組みしか残っていなかった。


山口さんが、本当に生きててよかったとほっとした口調で言う傍らで、厳しい暑さのなか多くの若者が清掃作業を昼まで取り組み、一旦避難所で休んでから夕方涼しくなると、また清掃作業を再開する。全国各地からボランティア達が掃除道具を持参してやって来ていた。流れ込んだ水に下水道の汚水と重油が混じり込んだ汚泥の酷い臭いが漂う。それでも誰も不平不満を言わずに家の復旧作業に取り組んだ。日本人が自然の無常な試練に立ち向かう時、それを素直に受け入れる姿勢、これは私たちが学ばなければならない課題の一つではないかと思う。

この二台の発電機を山口さんの家に届けたところ、近所の住民達にもとても喜んで頂けた。熱心で大らかな坪田部落の自治会長補佐の守屋美雪氏は、不思議な縁で台湾から来た慈濟に対し感謝の気持ちを表した。復旧作業が済んだら是非また皆に会いたいと願っています。
訳/小野雅子
文/呉恵珍.楊至弘.許麗香