災害後の復興に力を注ぐ
一本一本、木で骨組みを作り、その上を帆布で覆い風雨を凌ぐ。モザンビークのボランティアは農業用建材と帆布を使い、バルディアおばあちゃんのテントを作った。モザンビークではイダイサイクロンによる風災害が発生した。慈濟は災害救援の後、地元ボランティアと地域の復興を援助した。
現地にある廃材 部材を活用
慈濟がテントを作る前、バルディアおばあちゃんは地面にいくつかの木切れを立て、魚網を張った「家」にいた。慈濟ボランティアは現場にあったばらばらの木材を活かし、帆布を張ってテントを作った。侘しい佇まいではあったが、以前の「家」よりは雨風を十分凌いでくれた。テントが完成するとボランティアは、福慧ベッド、毛布、食料を提供した。おばあちゃんは福慧ベッドに座り、快適だと喜び、手を合わせてくれた。
現地ボランティアの恩返し<
通訳を引き受けたアルマ郡の現地ボランティアであるマニューは、大愛村で慈濟の援助を受けている人々を見て様々な思いが込み上げてきた。ヤマの町に家のある被災者でもある四十七歳の彼は、五月下旬から慈濟の災害救援に参加した。彼の家をサイクロンが通過した夜、屋根が落ちてドアを塞ぎ、彼は近くに住む息子が来るまで逃げられなかった。その時の恐怖が心にある中で、彼は大愛村で助けられている同胞を見て喜ぶと同時に彼らの再起を願った。そしてヤマの町を救って下さった証厳法師に感謝の意を表す同時に恩返ししようと心に決め。
ボランティアの願い
四十九歳のサリタは四人の子供を持つシングルマザーです。風災後、恐怖の為か足が震え立つ事ができず、家業の農業もままならなくなり、生活は生きる事さえ難しくなるほど追い詰められました。現在の家は風災の後、長男と次男が建てた四方の壁と藁葺屋根だけの隙間だらけのものでした。子供たちは学校を中退し、市場で物品を販売して家族を養うための一日約十五モコイン(約二十六円)を必死に稼いでいました。ボランティアは躊躇うことなくフォローアップ継続支援を決定しました。
七十九歳のフランチェスコは自力で家を再建できず、未だに傾いた藁葺屋根の家に住んでいました。腰を曲げないと入れない薄暗く狭い部屋は、彼一人が座れるだけの広さで家具もなく、ただ部屋の隅に煮炊きのスペースがあるだけだった。
慈濟ボランティアは農作業用の部材と木材を見つけ、近くにある茅を集めると、一人一本ずつ柱を支え、力を合わせて家づくりを行った。 一時間後、新しい建物が完成すると、フランチェスコは胸を張って新しい家に入った。新しい家で慈濟人が用意してくれた温かいご飯と花豆を、貝殻のスプーンで一口ずつ口に運んだ。喜びにあふれるフランチェスコの瞳には、ボランティアが家族のように心を広げて温かく受け入れてくれる姿が映っていた。
二十五歳のエイズ患者サラは病気が原因で隔離され、村が面倒を見ているものの誰もが近づくことを恐れ、高さ一メートルのレンガ造りの家だけが痩せ細った彼女の居場所だった。村長の案内のもと、現地の慈濟ボランティアが訪問ケアに向かい、マリア・オリンダは病気に恐れる素振りもなく優しい言葉とともにサラに寄り添い、インスタントラーメン、五穀粉、小麦粉、豆などを彼女に渡した。
彼女、マリア・オリンダは、マプトの出身で、かねてより慈濟の法を多くの人に広めたいと夢を持っていた。 風災後の四月、彼女は被災地へ向かい被災した人々を助けた。 彼女は六人の子供を持ち最年少は七歳であるが、被災者を助けるためにと、子供を諭し託すと被災地まで何千マイルもドライブして活動をしていた。
台湾からの慈濟支援視察団は、被災した学校、病院、そして大愛村予定地を訪問し、現地の状況とニーズを検証し中長期的支援の基礎的視察を行った。視察を続けるなか、一行はこの貧しい土地での復興の希望を見出し、さらに地元の慈濟ボランティアに導かれる中、彼らはこの黄色い大地に確実に足跡を残していきました。
訳/吳俞輝·文/廖右先 褚于嘉 ·攝影/陳柏亘