千里を越えた愛

2023年 3月 06日 訳/海老本直樹‧文/陳量達
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不思議な縁

七年前、台湾のある小学校2年生が心のこもった一枚のカードを書きました。この小さなカードは、彼女の先生とともに海を渡りました。2057キロもの旅をし、気仙沼の唐桑町にまでたどり着きました。そのカードは3.11東日本大震災の被災者である宮川聖德の手元に届くのでした。

歪んだ中国文字が小さな子供によって書かれたものであることは分かっても、彼はその意味までは完全に理解できません。しかし、カードを見た瞬間、彼はカードを書いた子供に会いたいと感じました。是非、会って感謝の気持ちを伝えたい、と。この考えは、心の中に植え付けられた種のようなものです。彼は、7年もの間、このことを忘れる事はありませんでした。

宮川は、この小さなカードを透明フィルムで保護し、風鈴の下の短冊として括りました。風鈴は彼の車のバックミラーに吊るされ、毎日宮川とともに行動しました。車が走り出すと、風鈴がチリンチリンと鳴り、宮川に語り掛けるようでした。時が過ぎたある日、この不思議な縁は結ばれ、種は芽生える事になるのです。


3.11東日本大震災

市内から唐桑町に戻るためには、山を一つ越えなければなりません。彼らを乗せた車は山を登り、トンネルに入りました。そこで、車は渋滞に遭遇し、前へ進めなくなりました。ほんの数キロの短いトンネルでした。しかし、それは長い待ち時間の始まりでもありました。2011年3月11日、唐桑町に住んでいた宮川は、兄と二人で気仙沼へ買い物に来ていました。午後2時46分、天地が地響きとともに大きく揺れました。揺れは、しばらく続き、二人は不安を募らせ、早く家に帰らなければ、と思うのでした。

山腹のトンネルの中は、外界からは隔絶された世界でした。しかし、そこは彼らを死神から救う場所でもありました。後に、彼らは知るのでした。彼らがトンネルの中に閉じ込められていた間、外では無情な大きな津波の波が次から次へと押し寄せていたのです。津波は、山腹にある家々に襲い掛かり、またトンネルの外で立ち往生している車をも巻き込んでいました。

宮川の車はトンネルの中を少しずつ、少しずつ前へ進みました。しかし、車がトンネルの出口に近づくと、もう前へは進めませんでした。前の車の人達が車から降りるのが見えました。宮川たちも車を降りました。そこでは、誰もが既に歩くことを決めていました。歩いて家へ帰ろうと。
トンネルの外は、空がすでに暗く、風が吹いて雪が飛びかっていました。トンネル出口の丘陵地から、宮川の故郷である気仙沼漁港が見えました。フカヒレの水揚げで有名な漁港です。その漁港が火の海に包まれていました。そこには彼の友人が居ます。知人が居ます。皆の安全を何とか知りたい。しかし、電話は全く通じません。全ての連絡手段が絶たれていました。先ずは家に帰ろう。歩こう。

この時ようやく、自分の家は無くなったのだ、と宮川は気づいたのでした。突然、下り坂の所に電柱の電線が見えました。そこに引っかかっている布が見えました。良く見ると、それは何と自分の家のカーテンではありませんか。新築してまだ1年しか経っていない自分の家。海の高さは自宅の家の高さより高く、探しても家が見つかりません。この事は、宮川に大きな衝撃を与えました。家は津波によって流されてしまったのだろうか。しかし、まだあきらめられません。帰って自分の目で確かめなくては。もうしばらく進みます。

同じ日の午後、2075キロ離れた花蓮市では津波警報が鳴り響いていました。慈濟小学校の謝瑞君先生は回想します。生徒たちが一同に集められ、学校は生徒たちの家に連絡しました。保護者たちが各生徒を家に連れて帰ります。花蓮市の道路はどこも大渋滞となっていました。家に帰ろうとする多くの人たちで大きな混乱が生じていたのです。その時、同じ花蓮では、證嚴上人によって災害救助センターが既に設立され、活動を開始していました。日本の大都市東京も大きな揺れに見舞われ、交通網が寸断していました。家に帰ろうとする多くの人達が「帰宅難民」となっていました。

心のこもったカード

気仙沼には122人もの慈濟ボランティアが入りました。そして、世界39か国の慈濟ボランティアが集めた愛の募金を配布したのでした。お見舞い金は8千戸以上の被災者へ、一家族ずつ真心を込めて慈濟人の手で直接手渡されました。町の空気はまだ水害の匂いが漂っていました。道路の両脇には未だ瓦礫が残っており、市内には津波によって流されて来た大きな漁船も横たわっていました。震災があった年の8月、気仙沼市では慈濟ボランティアが災害給付金の配布を行っていました。気仙沼は、慈濟が被災者をお見舞いする5番目の都市でした。



この時、62名の慈濟ボランティアが台湾から気仙沼を訪れていました。むろん、現地へ赴くための旅費、滞在費はすべて自前です。そして、そのようなボランティアの中に、慈濟小学校の謝瑞君先生も居ました。

彼女は出発前、自身が受け持っている2年生のクラスの生徒たちと話をしていました。

「みなさん、今年の3月に日本で大きな地震があったことは知っていますか。」
「知っています。」
「みなさんは、被災した人たちを助けてあげたいですか。」
「はい、助けたいです。」
「先生は、慈濟ボランティアの人達とともに現地へ行き、被災した人たちを助けるつもりです。みなさんは現地へ行くことは出来ませんが、どのようにしたら困っている人たちを助けることが出来ると思いますか。」
「私たちは、困っている人たちに手紙を書くことが出来ます。」

彼らはメッセージカードを書きました。それぞれのカードには、子供たちが被災者へ伝えたい思いが書かれました。また、そのカードの裏側には、子供たちが選んだ證巖上人の靜思語の言葉も書かれていました。

7月29日、謝先生と慈濟ボランティアたちは唐桑町の公民館に到着しました。宮川は、見舞金を受け取ったのち、家に帰ろうとして、出口で謝先生が花蓮から持って来た小さなメッセージカードを受け取りました。それは謝先生の学校の張瑾瑜が書いたメッセージカードでした。宮川は、このカードを手に抱き、その内ある日、このカードを書いた人と会えるような気がしました。しかし、彼は海外に行く予定もないし、パスポートも持っていないのでした。

大災害のあとは、やらなくてはならない事が数多くあります。被災者たちの再建までの道のりは長く、そして辛いものです。カードを書いてくれた人と会うなどと言う夢は、いつ果たすことが出来るのか分かりません。震災ののち、宮川は何回も住居を移さなくてはなりませんでした。そして、その度に多くの持ち物が失われて行くのでした。しかし、一枚のカードだけは風鈴となり、彼の車の中で音色を鳴らし、彼とともに毎日一緒に仕事に行き、生活の一部となっていました。



夢の実現に光

2017年12月、日本の東北地方には寒い冬が訪れていました。クリスマスの日、神戸から来た音楽家の張智仁は宮川の車の助手席に乗っていました。彼は、以前に発生した阪神大震災の被災者です。被災後の復興までの道のりの険しさを経験していました。あの日、廃墟の中で張智仁は鍵盤ハーモニカを見つけました。彼は、そのハーモニカの持ち主も阪神大震災に遭遇したのだと思いました。その人は今、何処に居るのか分かりません。気持ちは感傷的になるとともに、一人の音楽家として、この鍵盤ハーモニカに今一度新しい命を吹き込みたいと思いました。そして後に、彼は鍵盤ハーモニカの演奏グループを結成するのでした。

3月11日の震災の後、張智仁は鍵盤ハーモニカの演奏グループとともに、被災者を慰めるため、度々気仙沼を訪れていました。そして、そこで宮川と出会いました。張智仁は小さい頃、神戸の中国語学校に通い、そこで中国語を学びました。宮川の車の中の風鈴に吊り下がっているカードに書いてある中国語も理解し、興味を引かれていました。

ある日、張智仁は宮川からこのカードについての今までの経緯を聞きました。話を聞いた張智仁は、そのカードに書かれているのは中国語の繁体字で、台湾からのものであろう、と宮川に伝えました。彼はちょうど、長野県千曲市の観光大使も担っていました。そして台湾へ鍵盤ハーモニカの演奏グループとともに、広報活動のために行く予定があり、宮川を誘うのでした。

宮川が、この7年間抱き続けた夢、この夢の実現に向けて一筋の光が見えたように思えました。しかし彼が今、手に持っている手がかりは、たった一枚の小さなカードだけです。宮川は、急いで以前に見舞金とカードを受け取った唐桑町の公民館に行きました。市役所にも行き、尋ねました。そして最後にようやく、7年前に台湾から慈濟と言う団体が来て、被災者に見舞金を配っていたことを知るのでした。

今年の1月18日、慈濟日本分会は宮川から電話を受けました。そこで、彼がメッセージカードを書いた人に会いたいと言う事を告げられました。日本分会では、カードをファックスしてもらうようにお願いしました。送られて来たのは、薄れた文字の小さなカードで、書いた人の名字が張であることしか分かりません。フルネームが書かれていないのです。一体どこで、どのようにしたら、この人を探せると言うのでしょう。

多くの人々が居る中で、カードを書いた人を探すのは、干し草の山から針を探すも同然です。瞬く間に三か月が過ぎてしまいました。皆が徐々にこの一件を忘れかけていた頃、沼田青宝が台湾から帰って来ました。彼女はこの件について今一度考えるのでした。宮川の気持ち知り、何とか彼の夢を実現する方法を考えなくては、と強く思うのでした。そしてようやく、大愛テレビの人たちの助けを得ることを思いつきました。彼らに事情を説明し、資料を渡したところ、なんとその翌日にはカードの書き手が見つかったのでした。

感動的な出会い

8月27日、宮川は花蓮に向かう列車に乗っていました。張智仁と千曲市の鍵盤ハーモニカ演奏グループ18名も一緒です。彼らは、宮川の感動的な話を聞き、是非花蓮で、その場面に立ち会いたいと思ったのです。

花蓮の駅からバスに乗り換え、そのバスが会場に到着すると、そこには慈濟小学校の先生たちが居並び、慈濟幼稚園の小さな子供たちまでもが一緒に、一行を大歓迎するのでした。このような大きな歓迎を予期していなかった宮川は、大きく心を揺さぶられるのでした。

会場では、慈濟中学校の李玲惠校長から心のこもった歓迎の言葉が述べられました。そしてその後、謝瑞君先生本人から、一枚の小さなカードがもたらした、2057キロの距離と7年の歳月を超えた巡り合わせの話が語られました。日本から来た宮川と音楽グループ一行の目には涙が滲むのでした。

2586日間、心の中に閉まってあった夢。宮川と当時の小学二年生。今日、ようやく宮川と高校生になった張瑾瑜の二人は出会い、互いを強く抱擁するのでした。

花蓮を離れる前、宮川とその一行は慈濟靜思精舍を訪問しました。出発する前に、大愛テレビの記者が宮川に今の心境を聞きました、彼は答えました、この気持ちは表現しようがない。気持ちはとてもさわやかだ。分かっているのは、もう一度ここに戻って来たい。戻って来たい。彼は繰り返し言うのでした。ここに待ってくれている人が