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08月21日
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復興を遂げたチリ 美しい心の国

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朝まだ早く、空はうっすらと霧がかかっている。慈済チリ災害援助チームは、泊まっているホテルの玄関口に集合し、Quirihue市に向けて出発する準備をしていた。

このブルーの隊伍が勢揃いしていた時、遠くのかすんだ霧の中から、一人また一人……、しまいには何十人もの人々が、旅行カバンを引いて現れた。彼らは首都サンティアゴ・デ・チレから来た現地ボランティアだった。「藍天白雲」(ブルーのシャツに白いズボン)のボランティアの制服を身につけてはいなかったが、皆列を正し、大隊をつくって行進して来た。

二通の電話が台湾人華僑を動かす
チリにいる台湾人華僑はそう多くはない。首都サンティアゴ・デ・チレに三百家族ばかり、約千二百人位がいるだけ、多くは企業経営者である。同じ台湾出身の華僑同士集まることもあるが、それはたいてい旧正月や端午節、中秋節の三節句の時で、大勢が集ってにぎやかに食べたり飲んだりと楽しく過ごす。

チリで二十五年間、産婦人科医をしている楊創栄は、以前から人々に慈善活動を勧めたいと思っていた。六年前に結婚してからは、夫婦で力を合わせて慈善活動を行っている。冬にシーツを募って老人ホームに贈ったり、クリスマスにはおもちゃを小児病院の子供たちに贈ってきたが、華僑社会で大きな賛同を得るようなことはなかった。

二月二十七日、チリで大地震が起こった。地震は現地の台湾人華僑の心も大きく揺るがした。地震の後、李亭亭は小さい時からよく知っている朱おじさんから電話をもらった。おじさんが言うには、アルゼンチンから来た慈済の人たちと地震の被害を調査に行くが、あなたたち夫婦も一緒に行かないかということで、彼女と夫はすぐに友達にも電話をして誘った。楊創栄の兄嫁は台湾人華僑団体のリーダーをしていたので、協力してもらってあちこちにこのことを伝えた。

南米に三十二年も住んでいるタイヤ輸入商の謝禎祥は、昨年九月にチリに移って来た。ボリビアに住んでいる母親の廖香枝も電話して来て、仲良しの洪おばさんが慈済の災害援助チームと一緒にそちらに行くから、手伝いをするようにと言った。

故郷を遠く離れた人たちが
心を一つにして善行を行う
朱おじさんとは朱文章、洪おばさんとは洪良岱のことで、二人は共にアルゼンチンの慈済ボランティアである。彼ら一行六人は三月十日にチリに着いた。すぐに謝禎祥と連絡をとり、八日間に亘る災害調査を開始した。

濃い眉に大きな目をした謝禎祥は、みなに「小熊(シャオション)」と呼ばれている。三十四歳の若さで会社を経営し、大きな資金の流通もやりこなしている。しかし一方、若くして事業を成し遂げたなどと思い上ったようなところがない。落ち着いていて、いつも物静かである。

謝禎祥は台湾で生まれ、二歳の時に商売をしている両親とボリビアに移民した。十九歳で米国の大学に入学、卒業後は台湾に帰り中国語を勉強した。その後、南米に戻りアルゼンチンで自分の会社を設立し、貿易業を始めた。

二〇〇七年十一月、ボリビアは連日の豪雨に見舞われ、河川が溢れ、何千何万という人が家をなくした。米国と南米各国の慈済ボランティアは災害援助チームを組み、二度も被災地へ行って被害調査を行った後、救災物資の配布と施療活動を行った。謝禎祥の母親の廖香枝は、長い間ボリビアで慈善奉仕に従事していた。縁あって慈済ボランティアの人たちと知り合いになり、交通手段の確保に協力していた。

昨年九月、謝禎祥は事業の中心をチリに移したが、思いもかけず五カ月後に大地震に会うことになった。彼は母からの電話を受けた後、計画していたエルサルバドルへの出張を取消し、チリで慈済ボランティアの来るのを待ち、交通や宿泊などの手配をした。

チリに到着した慈済ボランティアは謝禎祥の協力により、災害のひどい第八州の国会議員やコンセプシオン市市長と知り合い、政府の力を得て救災物資の準備や援助計画を進めた。そして被災地の奥深くまで入り、民衆の必要とする物が何か知ることができた。

被災地視察や物資配布の合間に、慈済ボランティアは首都の華僑学校で茶会を開き、華僑に参加してもらった。その日には四十人以上の参加者があり、後にその中の四人が核となって、慈済チリ臨時連絡所が生まれることになる。チリに二十一年間住み、食品の貿易をしている若き女性実業家の楊雅恵もその一人である。

青年ボランティアが重い責任を担う
楊雅恵は企業家の家に生まれ、十二歳で父母と共に台湾から南米に移民して来た。二十一歳の時に両親が経営する織物貿易の責任者として仕事をするようになった。三年前、おじの食品貿易会社の仕事も引き受けるようになり、独立して何でもやりこなす若き女性実業家になった。

事業は成功したが、楊雅恵は無欲で物事にもこだわらない性質で、交際好きでなく、華僑社会の活動にもあまり参加しなかった。あの日、誘われて母と一緒に慈済の茶会に参加して彼女は、「なぜだか分からないけれど、私は残ろうと思うの。そしてこの人たちと一緒に何かやりたいの……」と言った。

そして彼女は、慈済がチリ地震における第一回援助活動を行う際、とても重要な役割を担った。ボランティアは救災物資を一日も早く被災者に配りたい一心だったが、物資を集めるのは容易ではなかった。楊雅恵が自分の会社と取引のある卸商に救災の重要さを訴えると、熱烈な賛同を得、かなり安い値段で塩や砂糖、小麦粉、粉ミルクなどの物資を調達することができた。
同じように謝禎祥、楊雅恵、楊創栄夫妻、そのほかにも何人かの人々が華僑団体で聞いたと言って、現地から人道援助活動に参加した。彼ら現地ボランティアはまず台湾や米国、南米からやってきたボランティアを連れて被災地の調査に行き、必要な物資を準備するのを手伝った。さらに救災物資の配布や施療サービスの活動に参加した。

救災に参加して感ずる事あり
拠点を作ることになった
三月の下旬、慈済はコンセプシオンの三つの地区で第一波の援助活動を始めた。一段落つくと、洪良岱、朱文章らアルゼンチンから来た慈済ボランティアは帰国することになった。五月の第二回援助活動にまた来ることを約束し、また、謝禎祥たち現地ボランティアに、物資が必要な被災地を引き続き探してほしいと頼んだ。

チリでレストランと百貨店を経営する陳秀全夫婦もこの度初めて援助活動に参加したが、その後、積極的に奉仕活動を展開した。

ある日、被災地の調査が終わって首都へ帰る車中、それぞれの経歴や経験、見て来たことなどを話していたときのことだった。楊創栄が、「私たちは今までに援助活動をして来ました。これらの経験を生かすためにも、ここに慈済の活動拠点が作られたら、どんなによいことでしょう」と言うと、皆も口々に賛成し、チリ慈済連絡所設立に向けて、活発な意見が交換された。
遠いアルゼンチンにいる洪良岱は新しいボランティアが慈済の連絡所を設立しようとしていることを知ってとても喜んで、自分も協力を惜しまないと言った。こうして皆の協力で短時間のうちに慈済の臨時連絡所がサンティアゴ・デ・チレで設立された。謝禎祥は仲間たちに押されて臨時連絡所の責任者になった。

「この子は口数は少ないですが、やることはきちんとやる。それに、人を呼び集めることがとてもうまい。普段は物静かで自分のことは一番後回しにします」と洪良岱は謝禎祥のことをほめる。楊雅恵も、「小熊はゆっくり、相談するような物の言い方をするので、彼と話していると落ち着くのです」と言う。

皆が謝禎祥を「とてもよい人だ」とほめると、彼は恥ずかしそうに笑って「私はそんなによい人間ではありませんよ。私は慈済の人たちの物事に対する考え方や行動からいろいろなことを学びました。もし三カ月前、一週間の時間をつくってここへ来るようにと言われていたら、私はきっと時間がとれないと言っていたでしょう。米国から来た援助チームの人たちの多くは手広く商売をしている人たちです。私など比べものにならない小さい商売なのに、どうして時間がないなどと言えるでしょう」と言った。

「手伝い」から「責任」に
慈済の第二回援助活動の実施地点は、この新しく仲間に入った現地ボランティアの人たちが視察した上に選定した。

二回目の実施地点が決まってから、数名の新しいボランティアは交通の手配から物資収集、施療の準備、物資配布の名簿作りなどの準備をこなし、さらに華僑に呼びかけて四十一名に参加してもらった。

この度配布した物資は四月から集めたもので、五月二十五日の前にはチリに届いている。税関の手続きも終わり、これらの新しいボランティアは人集めや物資の整理を手伝い、物資配布や施療の計画を進めた。

Quirihue市とロタの配布会場では、謝禎祥が参加してくれた現地役人や記者を接待していた。楊雅恵は明るい笑顔で配布活動を進めていた。楊創栄は施療センターで被災者の診察をしていた。陳秀全夫妻は物資配布や昼食の準備と、みな忙しく働いていた。華僑の人たちは毛布や食糧、防水ビニールシートなどの物資を被災者の人たちに一つ一つ手渡していた。その度に彼らは深々と丁寧におじぎをして、被災者の人々の幸せを願うのだった。

七十歳になる呉炳煌はチリに三十五年住み、華僑団体のリーダーを二度務めた企業家だが、今は引退している。「本当は華僑の人たちはみな善の心を持っている。私たちはお金を寄付してお寺を建てたりしている。しかしそれは、系統的によいことをしているのではない」と呉炳煌は言う。呉炳煌のおいの呉崇明は慈済ボランティアに協力してスペイン語の通訳をしている。彼は「同郷の者同士助け合う華僑団体の考えは慈済と同じです。みんなお互いに助け合うためです」と言う。

これは慈済チリ臨時連絡所が成立してから初めて行われた援助活動である。楊雅恵は「前回、私は台湾人華僑という立場で、遠くから来た同郷の人々のお手伝いをしました。しかし今度はお手伝いではなくて、自分のことのように感じられます。すべて自分の責任でやっているのだと感じます」と語る。

同じ心を持つ者同士が心を合せて、人々のために尽くすことは、何より喜ばしいことである。謝禎祥は、「『あなたの友達を見たなら、あなたが誰だか分かる』というスペイン語のことわざがあります。私は心から慈済の人と一緒に歩きたいと願う。それは、自分も慈済の人と同じようなよい人になりたいから」。

心の中の善が一旦開かれると、その時一粒の菩提の種が生まれる。チリで起こった大地震が「一大事因縁(いちだいじいんねん)」を生み、現地の華僑社会が生まれ変り、慈済の臨時連絡所が成立した。

六月五日、八人のチリ慈済ボランティアは、脳性麻痺患者を収容するコアニル基金会を訪問し、毛布百十枚とタオル五十枚、歯磨きと歯ブラシ三十セットを贈った。チリ地震援助活動に次ぐチリにおける慈済の慈善活動の新しい一歩を踏んだ。

わずか三カ月という短い時の中で、愛と善の種が芽を出した。皆が集い、希望の花がいつまでもよい香りを漂わせながら開き続けることを望む。

慈済月刊五二三期より
文・曽多聞/訳・張美芳