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08月22日
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慈済日本分会 慈善志業の足どり

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慈善は慈済にとって永遠の根源です。一九九一年に孫さんにお手伝いの手を差し伸べて以来十九年間、慈済日本支部は数百件もの助けを求める声に応えてきました。そのうちもっとも印象深かったのは、一九九三年、癌に侵された凱凱さんと連れ立って行った最後のディズニーランド旅行でした。ある退役兵のため、九州と台湾を往復して五十年も生き別れになっていた親類を探したこともありました。日本旅行中に不幸が発生した蕭仕喬さんのご家族と同行したときには、ボランティアの皆さんが悲しみと無力感に打ちひしがれるご家族に手を差し伸べ、頼れる存在になってくれました。この十数年来、一人ひとりに差し伸べられた手は、新たなボランティアとなって戻ってきました。例えば白血病から奇跡的な回復を遂げた女の子とそのお母さんのこと。海を越えて援助を行ったマレーシアの陳樹碧さんのこと。まるで社会に見捨てられていたかのような加賀さんのために掃除していたこと。台湾から来た留学生を長期にわたり世話をしてきた尾村さん、その彼をケアすること。二十四時間にもわたって肝臓移植の手術に付き添ったこと等。感動的な思い出が多すぎて、そのすべてをひとつひとつ挙げることができません。ご縁があってお手伝いすることのできた人々が、慈済の菩薩となって戻ってくることを深く信じています。

大きな事故といえば、名古屋空港で起こった墜落事故を思いおこさざるをえません。犠牲となった数百人の大半は台湾人でしたので、私たちは東京・横浜・名古屋・大阪にいるボランティアと連絡を取って小牧空港へ急行しました。近くの体育館では、上人と仏様の冥福を祈る言葉で遺族の方々を慰め、また自分自身の心も落ち着かせました。この大事故は、慈済日本支部が初めて全力で立ち向かった慰問活動であり、団体行動の大切さを認識することができました。

バザーは常に災害復興支援のために行いました。一九九二年から始まった小型バザーのほか、三鷹国際交流バザー・豊中国際交流バザー・中華学校横浜バザー・群馬国際交流バザー、そして慈済日本支部で行われるチャリティバザーにも参加しています。

自分の老いと他人の老い――
老人ホーム訪問
一九九四年三月、私たちは初めて豊島区の老人ホームの方々に付き添ってお花見に行きました。これが第一回目の老人ホーム訪問でした。その後、しばらくの間は老人用のおしめを提供することで協力していただけで直接おじいさんおばあさんと触れ合う機会がありませんでした。一九九八年、山梨県で加藤恵さんが経営するホテルが台湾から来た劇団による公演とから来た劇団による公演と慈済の手話パフォーマンスを開催したため、ようやく目の前で演じることができました。その後、群馬地区では二〇〇二年より高崎にある「なごみ老人ホーム」への訪問を始め、慈済の歌の演奏・マッサージ・散髪などとても喜ばれました。東京のメンバーや青年会も遠路はるばる参加しており、今でも不定期で活動を続けています。

関西地区では「遥学園」の清掃のお手伝いをしています。東京地区では二〇〇六年前後より老人ホーム訪問を開始しましたが、いろいろと制約が多かったためにまもなく中止せざるを得ず、とても辛い思いをしました。

山友会から代々木公園へ――
ホームレス支援の足取り

一九九五年より山友会とご縁があり、ホームレスへ寝袋を支給しました。今でも忘れませんが、それは夜間の活動で、二日のうちに二百以上の寝袋を支給したのです。これは、私たち慈済日本支部が外部に対して行った最初の支給活動となりました。ボランティアたちは、初めて自らの手で施しを行う感動を心に刻んだものです。二〇〇一年にはおにぎりの炊き出しを行う機会を得ました。毎月一回の山友会が支援するホームレスのための炊き出しに参加するメンバーは僅か五、六名に過ぎませんでしたが、私たちは確かな一歩を踏み出したのです。

二〇〇六年になってついに代々木公園でホームレスへの炊き出しを行うことができました。このとき初めて、日本で慈済の支給方式を実施しました。雪のちらつく十二月の寒い日でしたが、ボランティアたちの暖かい心の火は消えることがありませんでした。二〇〇八年の年末、日本経済は不景気の底にあったため、派遣村では数多くのホームレスたちへ暖かい食事を提供し、とても感謝されました。ボランティアたちは千人分の食事提供を受け入れたため、菩薩のように夜を徹して準備する様子は誠に美しい図でした。派遣村での炊き出しをきっかけとして代々木公園で慈善活動を行うことができるようになり、今では毎月第一月曜日に定期的な炊き出しを行っています。

国際救援活動――
苦難の中で育つ慈悲
国際的な救援活動は慈済の慈善志業の目標の一つです。ただ、日本では災害が発生したとき、私たちは一体どのようなことができるのでしょうか?二〇〇四年、新潟で水害が発生した時には、水が引いたあとの二週間、東京・群馬・長野・新潟のメンバーたちが新潟県三条市で清掃活動を行いました。これは私たちが日本の地方部で行った最初の活動です。このときの活動を振り返り、ある日本人のボランティアは「これまで被害地に行き被災者のために働くことなんて思いもしませんでした。この機会をくれた慈済に感謝しています」と嬉しそうに語ってくれました。

二〇〇四年十月の中越地震に際して、慈済はすべての力を動員して救助にあたりました。レンタカーの手配・連絡・飲料水や物資の購入など、東京と群馬のメンバーが力を合わせて行った新潟県小千谷市での炊き出しでは、現地の皆さんから「皆さんの愛情のおかげで、私たちはこんなにも早く立ち直ることができました」という感激の言葉を頂戴することができました。その四日間、私たちはまさに上人の「福とは行いの中の喜びであり、慧とは善く解かり合える中に存在しているもの」だという言葉を会得することができたのです。小千谷の皆さんはすぐにも立ち直ることができました。そして二〇一〇年夏、私たちは災害復旧興を祝うお祭りに招待されたのです。

心とお金の募金活動――
一滴の心が集まり功徳の海に
かつて、日本での募金活動は自分の家族や友人から始めました。慈済を知る人が多くなかったゆえ、募金活動はとても困難だったのです。そんな中でも、あるメンバーは自分の子供を背負って自転車に乗り、炎天下汗まみれで募金を集めて回りました。今思い出しても、忘れがたいシーンです。

一九九七年、中国の華東地方で水害が発生しました。同年九月、日本支部は街頭に出て募金を行う第一歩を踏み出しました。雨の降る新宿は人影もまばらでしたが、歩行者が通りかかるたびに頭を下げて募金をお願いしたものです。何人かが募金をお願いするチラシを手にしてくれただけですが、何ともいえない安堵感を覚えました。募金はほとんど集まりませんでしたが、これが第一回目の街頭募金活動でした。

一九九九年、台湾で九二一地震が発生しました。上人の悲痛溢れる無言の呼びかけに応じ、日本支部のメンバーは全国で募金活動を行いました。街頭募金では、多くの人々が愛情を投げ入れてくれました。人間は元来、こんなにも無私の愛情に満ちた生き物だったのです。大きな愛情は大きな困難にも打ち克つものです。悲痛に打ちひしがれる中、愛情があったからこそ、台湾を再建するという希望を見出すことができました。その後、二〇〇四年には東南アジアの津波被害のための募金活動を行い、たくさんの愛情で募金箱を満たすことができました。東京・蒲田・宇都宮・大阪・群馬・山梨など、全国から愛情の反響が起こってきています。大きな愛情のため、もはや街頭に立つことは恥ずかしくも何とも思いません。最近では、台湾の八八水害やハイチの地震のための募金活動を行っています。参加するボランティアはますます増え、その感動はますます知れ渡るようになりました。苦難は人に悲痛をもたらしますが、同時にそのためにまた世の中の菩薩も増えていくのです。菩薩が次々に現れてくる、それが悲痛の中でせめてもの慰めです。

「相互扶助」のもと、私達は日本で足跡を残していくことができました。上を向いて世界と軌を一にしつつ、同時に足元を見て着実に前に進んでいかなければなりません。「苦難の中に慈悲を育て、変化の中で智慧を試す」を忘れず、慈済の志業を行っていきましょう。


訳/岸野俊介
写真/日本分會提供