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07月19日
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アメリカからハイチヘ 分かち合いのマジック

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「一緒に帰っていい?」。七つの女の子が頭を斜めにかしげ、見上げて聞いた。「それはだめだなあ。僕には家がないんだ。いつも仕事で違った国に出かけるものだから」。答えたのはスウェーデン人ボランティアのヨハンだった。

「それなら私たちがお家建ててあげる。皆で住めるような二階建ての大きな家を」。女の子は「一、二、三・・・・・・」と指を折り始め、「十階建てなら皆一緒に住めるよね」と言った。両手で十まで数え上げるのをヨハンは微笑を浮かべて黙って見つめていた。この子供たちがどれだけのケアと愛を必要としているかを、その時痛感していた。

慈済ボランティアの車がある街角で赤信号で止まった。ぼろぼろの雑巾を持った十ほどの男の子が止まっている車の窓を一枚一枚ふいて回っているのが見えた。カナダの慈済ボランティア、鄺敏梓の車まで来ると足を止めて車の中を覗き込んだ。

大きな黒い瞳に、労力への代価として少しばかりのチップを請い願う気持ちを浮かべ、ガラス越しに鄺敏梓を見た。ハイチに来る前から震災の深刻なダメージに対する心準備はして来たつもりだった。鄺敏梓は、窓を下ろしてその子の頭をなでてあげたい衝動を抑え、あふれ出てくる涙を止めることができなかった。

ハイチの震災から五カ月余り、当地政局が不安定なため、緊急救助から時間のかかる再建設まで、救援活動を行う上で多くの困難があった。しかし慈済の救助活動は止まることがなかった。五月下旬には小学校と孤児院に文房具などの援助物資配布を行った。

学ぶ機会を惜しむ
熱心な小学生
米国、カナダなど多くの国からボランティアが駆けつけて救援活動を続けてきた結果、ハイチに復興の兆しが見えてきた。町を歩く人の群れと行き交う車、市民生活の中心地には活気が戻ってきた。しかしそれに伴うべき政府の動きが遅く、街角には人の背ほどの高さまでゴミが積まれ、倒壊した建物はまだ片づけを終えておらず、燃えきらない塵特有の臭いを漂わせていた。

八月末までに全面復学を行うとの政府発表を受けて、まだ壊れたままの学校に生徒達が続々と戻って来た。そのタイミングに合わせて慈済ボランティアがポルトープランスと近郊のペチョンビルなどの多くの学校を尋ねて文房具を贈った。

被災の跡が残る粗末な薄暗い教室に集まった生徒達の顔は、喜びにほころんでいた。生徒たちは、もらった鉛筆や消しゴム、クレヨン、鉛筆削りを縦横いろいろな角度から眺めて、目を輝かせていた。

六千人に及ぶこのハイチ小学生への贈り物は、全米二十カ所の慈済人文学校に通う四千六百人以上の生徒からのプレゼントである。

慈済米国総支部はこの度、「ハイチの子供たちが勉強できるよう愛を贈りましょう」と呼びかけて、寄付を募った。南アフリカに向けて行った援助活動に続く、国境を越えた慈善活動である。この活動はもともと、貧しいハイチへの長期援助活動の一環として計画されたものだったが、それが今年一月十二日、ハイチが未曾有の大地震に見舞われたので、さらに援助対象の範囲を広げて早急に行われたのである。

米国ニュージャージー州中部の慈済人文学校に通う八歳の林彦君は、自分の文房具を贈り物として寄付し、幼い妹にもハイチの子供たちに贈る鉛筆やカバンの整理を手伝わせた。林彦君は、色とりどりの素敵な消しゴムに魅せられて思わず手が止まることもあったが、「自分の好きなものを、もっと必要としているハイチの子供たちに送ろう。きっと喜ぶだろうから」と考えて、心を込めてプレゼントを包装した。

ロサンゼルス慈済人文学校のPTA会長の黄啓源は、高校でコンピュータエンジニアをしている。高校で使い捨てされたトナーカートリッジを、リサイクルショップに持って行って文房具に変えるのだが、それがつもりつもって千五百本の鉛筆になった。黄啓源はこの鉛筆をハイチの子供たちへの贈り物に差し出した。「自分にも子供たちに負けない気持ちがあるだけではなく、ことにリサイクルができたことが嬉しい」と喜ぶ。

三カ月間で二十万個の文房具が寄せられ、第十三回の慈済災害援助チームは五月十八日から八月二十三日までに全ての配布を終えた。ポルトープランス、ペチョンビルの六つの小学校と仮設テントに住む子供がその対象だった。

米国慈済人文学校の校長たちも、ハイチでの物資配布活動に参加した。その中の一人、ニューヨーク慈済人文学校の王萍華校長は、ベッドもない、暑いテントの中での生活を強いられているハイチの子供たちを見て、涙が出た。しかし、幼い子供たちがこの辛い環境にもめげず、すべてが不足している中で精一杯身なりを整えて、毎日学校に通っている。子供たちの学ぶ意欲と教育の希望を目の当たりにしたことは、この度救済活動に参加して最も感動したことだった。

三十人の家庭主婦に始まった
竹筒貯金

ポルトープランスのサン・アレハンドロ教会団地には、高校教師のジョン・デニスが開く教室がある。四教室七クラスで、十五人の教師が無償で授業を行っている。慈済は毎週ここを訪れ、八十~百人の生徒の食事の世話をしている。朝は粉ミルクにシリアル、そして昼はご飯か麺とメニューは大体決まっている。

慈済米国総支部教育志業発展処の秘書、林宜汶が教室を訪れた時のことだった。五歳位の女の子が飴玉を一つ彼女に差し出した。すると、そばの女の子も続いて自分のを差し出した。林宜汶はそれを受け取ってからそのまま二人のポケットに返すと、二人ともあどけない笑顔で彼女を見上げた。

「子供たちの自分の好きな物を人と分かち合いたいと思う純真で温かい心根に、私は感激しました」。言葉は通じなくても心は通い合っていた。

ボランティアが付近のバス・ペン・デ・チョス団地を調査に訪れたとき、団地にあった十八の学校はほとんど倒壊したときのままで、修復されていなかった。その中の一人の校長が、政府の補助は四万グールド(約八万四千円)だけで、廃墟の整理はできても復建にはおぼつかないのが現状だと言った。しかし、六年生の生徒が毎年八月に行われる国家試験にパスし、スムースに中学に進めるよう、先生がその劣悪な環境で授業を続けているのだとも言った。

子供達が一日でも早く正常な環境で学校生活を送れるようにと願う気持ちは、当地の人と共に、救援団体の全スタッフの願いでもあった。ジョン・デニスは同志に呼びかけて子供達の授業を行う一方、三十人の婦女を募って、慈済創立の「竹筒歳月」精神に倣い、コイン貯金を勧めた。毎日竹筒の貯金箱にコインを入れる時に、必ず一つの良い願をかけるようにとも勧めた。
その団地に住むルイスはジョン・デニスの教室の隣で小さな売店を経営していた。この度の震災で家は倒れなかったものの、余震を恐れて家には戻らず、臨時に建てられたほったて小屋に家族がぎっしり詰まって住んでいた。ルイスはジョン・デニスに共鳴し、毎日少ない収入から二グールドずつ竹筒に貯金するようになった。それが大きな成就につながることを願って。

マリーもグループのメンバーである。この震災で、マリーは三人の子供のうち一人をなくしている。ボランティアがマリーの家を訪れた時は、家には慈済が配布した毛布と文房具があり、子供が新しい鉛筆で宿題をしていた。

「もともと豊かでなかった生活は、この震災で一層厳しさを増しましたが、多くの国々が援助に駆けつけてくるのを見ると、私たちは自分たちで立ち上がらなければならないと感じます。仕事を持たない一人の主婦に何ができるかわかりませんが、この三十人のメンバーに入ったことを本当に嬉しく思っています」。マリーは祖国ハイチを助けたいと、自負を語るのだった。



被災地区を見て回ると、いたるところに慈済が配布したブルーのビニールシートが見られる。屋外テントの上に防水用として、あるいは屋内の仕切り用などいろいろな用途に使われている。行き渡ったブルーのビニールシートが青い海を想像させたのだろう、人々はこのシートを「Blue Sea」と呼んでいる。

五、六月の援助物資配布で今までと最も違っていたことは、活動の全工程を当地のボランティアが主導できたことだった。それに加わったマリエは「過去、慈済の助っ人として配布に参加していましたが、今度は慈済の一員として行動ができたことを本当に誇りに思っています」と言うのだった。

地震後、ハイチの人々は厳しい環境にさらされたが、苦境によってハイチの人々が持つその良い本質が変わることはなかった。人のために、自分以上に困っている人のために……と願う人々の心を、ボランティアはハイチで見たのだ。

慈済ボランティアはこの度、遠い海の向こうのハイチに愛を届けた。そして届けた愛が、心の安らぎと共に返ってくるのを深く感じた。これからももっとたくさんの人の共鳴を呼び、人々の苦しみが救われるよう願ってやまない。

慈済月刊五二三期より
文‧曾永莉、林宜汶、呉淑靜/訳・如薇